「松の廊下の模型」
写真は両国にある江戸東京博物館の常設展に展示されている江戸城内の模型の一部で「松の廊下」のものだ。未だに松の廊下での吉良上野介襲撃には謎があるという。一番の問題点は動機だ。これも解明されないままに、赤穂藩主だった浅野内匠頭は切腹させられてしまった。判決は5代将軍綱吉の命令だったというが、弁明の機会もなくの切腹が後世に謎を残してしまった。実は江戸城内での刃傷沙汰というのは結構起こっているのだ。大名にとっても余程プレッシャーの掛かる勤務先?だったのだろう。
「江戸城の大きさ」
さて、それでは松の廊下があった江戸城とはどの位の大きさだったのかだが、広さは内郭の内側だけで30万坪、外郭を含めると150万坪あった。今で言えば、外郭は御成門、虎ノ門、溜池、赤坂、四谷、市ヶ谷、牛込、小石川、水道橋、万世橋、浅草橋、両国橋、新大橋、永代橋、日本橋、鍛冶橋、数寄屋橋などにぐるりと囲まれていた広大な城郭だったのだ。凄い大きさだと言えよう。それが明暦3年(1657年)の大火事でほぼ全焼してしまい、勿論天守閣も消失し、その後再建されていない。勿論外郭の内には町人地、寺社地もあった。大体が職業別に区枠されていたようだ。巨大な外郭が江戸城の姿だった。
「自然災害」
5月30日の土曜日の夜、都内も地震で大きく揺れた。その前には屋久島の隣の島で大噴火が起きた。ここのところ、荒れに荒れ、揺れに揺れている日本列島。日本人はこの列島に住み、そこで自然災害を克服して生活してきた歴史がある。列島の各地で噴火や地震のリスクを抱えながら、それでも乗り越えて生きてきた。我々もまた耐えて自然災害に向おう。
「御茶の水」
知らなかったが、JRの御茶ノ水駅の横にある谷だが、元々は大きな台地だったそうで、江戸に幕府が造られ水を通すために大土木工事を10年以上に渡り行い、谷を掘り下げ、そこに神田川を通したのだという。掘り出した土砂で日比谷から銀座に掛けての埋め立てを行ったという。これが徳川幕府の初期のことだった。1615年に豊臣家が大坂で滅びて、その翌年からこの工事が行われたというが、これも外様大名に命じたものだったのだろう。豊臣家が滅び、それでもまだ徳川家を虎視眈々と狙っている外様はいた筈だ。「お手伝い普請」と称した外様の体力を奪うこうした大土木工事が江戸時代の初期には次々と行われていったという。
「駿河台」
地名の由来は?大御所徳川家康が駿府に隠居した時に江戸から連れて行った家来達、所謂旗本だが、家康の死後、江戸に戻ってきて住んだのが、神田山という場所だった。その地名「神田山」だが、住んでいる武士たちが駿河から来たことから「駿河台」と呼ばれるようになったという。