「加賀藩江戸上屋敷跡の発掘」

「さいたま歴史研究会―30」
「加賀藩江戸上屋敷跡の発掘」(写真:加賀藩邸の絵)加賀藩邸
加賀藩は藩祖前田利家が築いたものだが、当初は124万石あったという。それが分家を幕府が認めたので、「富山藩」と「大聖寺藩」に分かれ、本体は102万石とそれでも外様最大の藩となった。その上屋敷が本郷の東大校舎のところにあったことはご存知だろう。敷地の広さは10万4千坪。そんな加賀藩邸の発掘調査は何度も分けられ、部分、部分で行われた。すると沢山の物が出てきた。面白いのを紹介しよう。
「梅の御殿」というのがある。今はサッカー場になっているところだ。これは亡くなった藩主の未亡人の住まいで、便所が3か所見つかった。そこで便器の底を削って調べた結果、2か所では高濃度の鉛が検出された。この便所を使用していたのは女性たちだったという。鉛は化粧に使う白粉(おしろい)に含まれていたものだ。一方鉛が検出されなかった便所は人足たちが使っていたものだという。更に面白いのはそこから見つかった落とし物だ。銭、帯止め、簪、笄、温石等女性たちが使ったと思われるものだった。
藩邸の北に御先手組の組頭の屋敷があった。その屋敷は本郷通りに面していて、向かい側に高崎屋という酒屋があった。この店は今もある。藩邸と本郷通りの間に細長く御先手組の組屋敷があった。御先手組は将軍の警護役だ。組頭の屋敷跡の発掘からは多数の徳利と杯が見つかった。余程沢山の仲間内の宴会を行ったのだろう。酒飲み集団だったのではないだろうか。
藩邸は赤門で有名なのは本当の門ではなく、その南側に大きな門があり、その門の東側に表御殿、奥御殿等の藩邸の主な役所があった。
藩邸を大まかに分類すると、西の本郷通り側中央の門から入ると、藩邸はほぼ三等分で北、中央、南と区分される。その中央部分が主な建物で、今は三四郎池と呼ばれる池を中心とした庭園もあった。
そして北側が下級武士の住まいが、南側に中級武士の住まいがあった。その数は総数3000名、内武士階級が2500名程度、武士以外の男性、所謂中間や加賀鳶、人足等が約300名、女中らが200名程度いたと思われる。因みに赤門は文政8年(1825)に第11代将軍家斉の娘が嫁いできた時に造られたものだ。
屋敷内には大きなごみ穴が掘られ、いらなくなった物をそこに捨てていて、一杯になると次の穴を掘ったという。だからその穴を発掘すると生活の内容が分かるというのだ。皿、椀、水差し等の陶器磁器、或いは海外より輸入されたものも多数見つかっている。遊び道具も見つかっている。
藩士たちは江戸在住の者、参勤交代で一時的に江戸に来た者、これもすぐに帰国するものと、一年後に藩主と共に帰国する者に分けられた。
では江戸滞在中に武士たちは何をしていたのだろうか。紀州藩士の記録がある。そこでは、江戸ではまず観光として神社仏閣を巡る。吉原に花魁道中を観に行く。愛宕山に登り江戸市中を観る。切絵図を土産に買う。因みに切絵図は江戸市中の地図だが、大名旗本御家人の名や寺社名が書かれている。武鑑を買う。これも土産にした。武鑑とは大名旗本の履歴や官名、役職、石高等詳細が書かれていた。浅草奥山や両国広小路等で買い物や興行見物。名物を食べる。大手門前で大名の登城行列の見物。等々、彼らは本当に暇だったようだ。
それぞれの大名屋敷は、上、中、下と分かれていた。上屋敷は江戸藩庁、藩主の妻子(人質)、江戸詰藩士が暮らした。中屋敷は、世子、隠居が暮らした。ほぼ半数の大名家で中屋敷はあった。下屋敷は庭園、田畑、竹林、食料や物資の供給、小藩は藩士の住宅地。伊達家仙台藩は下屋敷で仙台味噌を造っていた。
これら3つの屋敷は幕府からの借り物だった。加賀藩の場合、下屋敷は板橋にあり20万坪もあった。基本的に幕府からの拝領地であるから、政権交代した維新の際には明治新政府に召し上げられてしまった。
銀座4丁目の和光です。(写真:和光)和光
江戸時代の切絵図によると、日本橋から京橋、新橋までの所謂銀座通りは全て町屋だった。武家屋敷はなかった。因みに京橋とは日本橋から京都へ向かう最初の橋のことで、大坂にも日本橋(にっぽんばし)も京橋もある。
四丁目から西に向かえば、数寄屋橋御門で南町奉行所があったし、東へ向かえば、木挽町になり歌舞伎の小屋があった。
以上、雨が降り続く東京から勢古口がお送りしました。来週は4S会のメンバーで壱岐、長崎、有田、博多を回る旅に出掛けますので、次号の配信は日曜日になります。