「義民が駆ける」

「さいたま歴史研究会―25」
「義民が駆ける」藤沢周平作(写真は藤沢周平記念館内部:藤1)藤1
12代将軍「家慶」の時代。大御所「家斉」が存命中の「天保年間」の事件を小説化したのが、今回ご紹介する「義民が駆ける」だ。作家は庄内出身の「藤沢周平」だ。彼の数少ない歴史小説の一つなのだ。
川越藩の財政は危機的状況で、既に40万両もの借財があった。幕府から11万両、江戸商人から7万両、京都商人から15万両、川越商人から7万両といった具合だった。ここに婿養子に入ったのが、家斉の53番目の子供である「斉省(なりやす)」だった。藩主の「忠器(ただたか)はこの養子の縁で何とか豊かな土地に転封を考えた。養子の母親「お糸」にそれを願い出て、お糸は大御所にお願いして、更に大御所は側近にその願いを伝え、側近は老中の「水野忠邦」に伝えた。この時の幕府中枢は、大老「井伊」、老中筆頭「水野」、老中「脇坂」「土井」「太田」で、その後井伊と太田の後任に「堀田」と「真田」が入ることになる。
そこで水野は、「川越⇒庄内⇒長岡⇒川越」という「三方所替え」を思い付く。当時の庄内は米所でもあり、最上川の河口にある「酒田」が北前船の寄港地としても栄えていて、豪農豪商の「本間家」もあった豊かな土地だった。老中の会議で反対の意見を述べたのは太田のみ。他の老中は賛成した。しかし何か理由を付ける必要があり、庄内藩主の「酒井忠発(ただかた)」の代理(当時藩主は国元にいた)を呼び付け、「酒田港取り締まり不届き」に付き長岡に転封を命ずるとした。また長岡藩については、新潟港で難破船からの盗みがあったとして、川越へ転封を命じた。これが天保11年11月1日(1840)のことだった。
しかし、これが庄内藩に伝わると、農民たちが猛反対をした。藩としては幕府の命令に背く訳にもいかず、農民の自主的な動きに任せるしか手はなかった。一方で賄賂を幕府の主要メンバーに送ろうという案も浮上した。
だが農民たちは結束して代表を江戸に送り、「駕籠訴」をしようということになり、川北(最上川の北側の農民組織)から12名が選抜されて江戸に向かう。11月23日に国元を出発し、江戸馬喰町の「大松屋」に宿泊するも、駕籠訴だと知られ、駕籠訴は天下の大罪として藩の江戸屋敷に通報され、藩に説得されることに。川南からは20名が雪の中、秋田経由で江戸に向かい天保12年正月15日に到着した。そして1月20日に、5班に分かれて駕籠訴をした。相手は「井伊」「水野」「太田」「脇坂」「水戸藩家老」であった。午前10時頃、大手門前に太田の駕籠が来て、駕籠訴する。取り押さえられるが、状箱は駕籠へお取り上げになられた。1月30日大御所死去。
この駕籠訴の内容が周囲に知らされると、庄内藩への同情が高まる。参勤交代で藩主が江戸へ向かおうとすると農民が集まって阻止しようとした。この時集まった群衆は10万人とも言われていた。(写真:群衆が描かれた時の絵:藤2)藤2
しかし藩主は江戸に向かう。
次の計画は「江戸大登り」と称し、川北、川南合同で3月3日に36名が江戸に向かい、水野、太田両老中に嘆願書を提出した。
更に合計420名が江戸に向かうことになる。藩も引き留め役の役人を江戸に送る。
幕府内部では井伊と太田が失脚し、堀田、真田が幕閣に加わる。ここで水野は南町奉行の「矢部」に調査を命じた。新米の矢部のほうが扱い易いと思ったのだろう。北町奉行は遠山(金四郎)だったから、彼はまじめにやり過ぎると判断したらしい。ところが矢部の調査は徹底していて、関係筋を全て調べ上げ、川越藩の裏事情から、何から何まで調べた。
地元からの大登りは中止となったが、矢部は老中皆の前で口書きを読み上げた。まずその経緯から始め、婿養子からお糸の方、大御所、側近、老中へとのルートが明らかになる。矢部は更に川越藩は大御所周辺に大金を渡したこと、所替えには何ら理由がないこと、農民の駕籠訴などは庄内藩主を思う心から出たものだとした。
天保12年7月11日、将軍の前での閣議が開かれた。月番老中の堀田は水野の登城を停止してのことだった。水野は老中を辞めた。そして将軍の前で「三方所替え」は中止となった。
地元庄内では7月16日に農民数千人が喜び町内を練り歩いた。この日から7日間宴会が続いたという。
しかし、その後水野は復活し「天保の改革」を行うことになる。水野の矢部と庄内藩への恨み辛みが強く、矢部は水野の手先であった目付の鳥居により、勘定奉行時代の罪を問われ、その役を追われ、桑名藩に永預けの末、俸禄没収、家名断絶となり、断食して自殺した。後任の南町奉行は鳥居となった。
また、庄内藩には「印旛沼干拓事業」(工費は全体で11万7千両を五つの藩で負担)のお手伝いを命じた。新潟港は長岡藩から取り上げられ幕府直轄地となった。
その後、天保の改革は失敗した。
これが小説のあらましだ。(写真:藤3)藤3
因みに駕籠訴とは、老中の登城の駕籠に向かって訴状を差し出すことで、本来は禁じられていた。供侍に斬られても仕方なかった。老中のみ登城の際に小走りで隊列が進むのを映画などでご覧になられた方もおられようが、老中のみに許された所作だった。だから農民は小走りの登城の列と先頭の槍の紋章で老中の名前を確認出来た。

「柿」
新潟の友人から柿が送られてきた。実に甘い柿だ。もうこんな季節になっていたのだと改めて思い知らされた。季節は進む。(写真:柿)柿
同時に我が家の近くの街路樹も色付き始めていた。(写真:紅葉)

「上弦の月」月
久し振りの晴れに夜空には上弦の月がくっきりと観えた。美しく光り輝いている。宇宙は今も膨張しているらしい。そして1200億年後までは膨張を続け、その後縮小を始めるのだろうか?何とも不可思議な宇宙とこの世界だが、月はおとぎ話のように夢を与えてくれる。