「東京150年」展
両国の江戸東京博物館は夏休みなので沢山の人たちが訪れていた。今行われている常設展での催し物は「東京150年」。京都から東京、即ち江戸から改名された東京が出来て150年の足並みを写真で描いている。(写真:T1)
一部をご紹介しよう。この150年、時代の変化は戊辰戦争、江戸無血開城、上野戦争を経て、最大の災害は大正12年(1923)9月1日に起きた関東大震災。そして昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲だろう。それでも東京は発展し続けた。そんな軌跡を追う。
「東京市街之光景 弐」明治37年(1904)(写真:T2)
中央上には前年に開園した日比谷公園があり、その上には官庁集中計画によって建てられた司法省と大審院が見える。その左手には海軍省、左端に位置するのが国会議事堂である。また、画面中央には新橋駅が見え、そこから横に銀座煉瓦街が展開している。
「東京市街之光景 参」明治37年(写真:T3)
画面中央を横切っているのは市区改正事業によって建設が進む、上野―新橋間をつなぐ高架鉄道で、その下には新橋停車場が見える。画面左上の小高い部分は山頂に愛宕塔の建つ愛宕山となっている。
「東京市街之光景 壱」明治37年(1904)(写真:T6)
築地から揚げられた軽気球から写された現存最古とされる空撮写真。垂れ下がる気球の綱の周囲に位置する広いエリアが、丸の内である。この一帯は市区改正事業によって民間に払い下げられた後、開発が進み、「一丁倫敦」と呼ばれるオフィス街となる。中央(綱の位置)にあるのが1894ねん(明治27)に竣工した東京府庁舎(二代目)で、隣接して東京市役所や三菱一号館なども見える。
「日本橋周辺」大正12年(1923)9月(写真:T4)
「京橋方面から見た銀座の焼け跡」大正12年(1923)9月(写真:T5)
9月1日に発生した関東大震災は、揺れとその後同時多発的に発生した火災によって東京市街に壊滅的な被害を与えた。写真は銀座の甚大な被害を伝えるもの。かつての銀座煉瓦街は、地震と2箇所から発生し拡がった火災によって焼尽と化した。
「有楽町、東京都庁舎」昭和32年(1957)(写真;T7)
画面中央左に落成後間もない東京都庁舎第一庁舎が写る。また、画面の左下では東京高速道路の建設が進んでいて
る。東京高速道路は戦災の瓦礫によって外堀を埋め立て、その上に高架道路を建設し、高架下をテナントとして貸し出すことで賃借料を得て運営する、という当時としては画期的な道路で、現在も首都高に接続する一般道として、株式会社による運営がなされている。
「銀座」昭和29年(1954)11月29日(写真:T8)
クリスマスの近づく銀座4丁目交差点の様子が伝わる写真。まだ戦後復興の途上にあり、焼け残った戦前のビル以外に、新たな高層建築はあまり見られない。しかし、画面左下には撮影前年に設置された森永の地球儀型ネオンも写り、高度成長期以降の華やかな銀座へ向かう、その端緒も見られる。
「羽田空港」昭和31年(1956)2月19日(写真:T9)
1952年に一部接収が解除された羽田飛行場は、東京国際空港と改名し、再び東京の空の玄関口となった。1955年には新しい旅客ターミナルが開場し、東京オリンピック開催が決まると更なる整備拡張が行われた。写真には開業間もない旅客ターミナルが写るほか、海に目を向けるとかつてこの地域の主要産業であった海苔養殖の「ひび」が確認できる。
「霞が関ビルと周辺」昭和42年(1967)6月29日(写真:T10)
竣工近い霞が関ビル周辺を写した空撮写真。東京タワーと霞が関ビルの高さ、大きさが目を惹く。写真でも分かるようとおり霞が関ビルはその容積(約50万m3)でも群を抜いており、長らく容積の多さを表わす基準として「霞が関ビル○杯分」という表現が用いられるほどだった。
「新宿・新宿御苑」昭和29年(1954)11月29日(写真:T11)
昭和29年の新宿周辺の光景。写真右上には伊勢丹と三越、中央左には新宿駅、その左には稼働中の淀橋浄水場が写る。かつての戦災の影はもう見えない。