「鉄砲伝来」

「雑談、第15話」
「鉄砲伝来」
鉄砲の伝来は天文12年(1543)で、九州の種子島に着到したポルトガル人の貿易商の手によってもたらされた。鉄砲二挺を献上された島主は、凄いものが手に入ったと欣喜し、抱え鍛冶師に命じて鉄砲を分解させ、すぐに和製のものを作らせた上で、火薬の製法、調合法をも研究させた。金属で中空の器を作ることを張り立てというが、この張り立てには並々ならぬ苦労を強いられた。銃身の尾栓を止める方法がわからないため、抱え鍛冶師は自分の娘をポルトガル人に献上し、その代償としてネジ止めの秘伝を教わったという。やがて鉄砲製造の中心となったのが近江国坂田郡国友村であった。室町の末期ゆえ。将軍は足利義晴で、時は群雄割拠の戦国時代である。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らがこぞってこの飛び道具に目をつけ、国友村の鉄砲鍛冶は量産体制に入り、大きく飛躍した。なかでも信長が特に鉄砲製造に積極的で、国友村に莫大な資金援助を一挙に五百挺もの註文をしたという。この時、信長はまだ16歳の少年であった。その後、戦いには鉄砲は欠かせないものとなったが、信長には機を見て敏なる先見の明があったのである。わが国の鉄砲は長いこと火縄銃一辺倒だったが、幕末の頃になると短銃がちらほらと出廻り始めた。嘉永7年(1854)にペリーが日本を訪れた時、朝廷へピストールのリボルバーを献上したと伝えられている。ところがそれ以前に、レミントン、リンゼイ、マスターソなどの単発銃や、ペッティンゲル、S&Wなどのリボルバーも長崎の地から入ってきていた。中には抜け荷によるひそかな入荷もあったという。火縄銃のように嵩張ることもなく、蓮根式だからすんなりふところに収まるところから、新時代に触れたような気もし、重宝されたらしい。(小学館文庫、和久田正明著、提灯奉行より抽出)