「さいたま歴史研究会―19」
この書は「渋沢栄一」自筆の書だそうだ。(写真:書)
歴史研究会の講師のM先生がお持ちの物だ。渋沢栄一は今の埼玉県深谷市で天保11年、1840年に生まれ、逝去されたのは1931年即ち昭和6年、何と91歳と長寿だった。天保、安政、文久、元次、慶応、明治、大正、そして昭和を生きた人だった。家は豪農で豪商で手広く事業を営んでいた。一橋家に使え、徳川慶喜を知る。慶喜の弟、徳川昭武の渡仏に際して、付き人として欧州に留学する。その後戊辰戦争になり、帰国を命ぜられる。慶喜に従って静岡に行くが、新政府からの静岡藩い53万両が下されたので、それを元にして製茶、養蚕事業に貸付し産業を興させ、肥料や米を仕入れて販売した。更に明治になると「大蔵省租税正」になり、事実上副大臣格となる。その後財閥を形成するようなことはなく、次々と事業を興すが、これを次々と他人に譲り、日本の産業発展に尽くした人物だ。特に有名なのは、「第一国立銀行」の設立だ。その他、鉄道関係1400社、保険14社、銀行42行、製紙6社、陸運42社等々だ。彼の考え方は、「発展は同業者ありて互いに競争して進歩するところにある」、「事業のために奔走するのは、国家の利益を図るためにあり、故に成立の見込みある事業は、幾個にても成立せしむに尽力する」とのこと。病院でも今の慈恵医大の元を造った。まだまだ彼の偉業はあるのだが、最初の書に戻ろう。
この漢文の意訳は、「何でもかんでも、目一杯やらずに、ほどほどにしておいたほうが、余裕が出て、上品というものである」とのこと。渋沢氏の晩年の作らしい。個人的な財に拘らない彼らしい考え方だ。
因みに本邸は「飛鳥山」に今も一部残されている。
「有楽町駅前」
イルミネーションが輝く有楽町駅前では沢山の人たちがスマフォをかざして写真を撮っていた。(写真:駅前)
今年も残すこと一ヵ月半となった。早いこと早いこと、正に「光陰矢の如し」そのままの一年が今年も暮れる。この頃になると次々と喪中の葉書が届く。知り合いを失うのは辛い。まして同じ釜の飯を食った仲間の死は更に辛い。