「火事と喧嘩は江戸の華」

「江戸東京博物館・常設展4」
「火事と喧嘩は江戸の華」
明暦3年(1657年)1月18日、本郷にある「本妙寺」から始まった火事は折からの風に煽られて、三日三晩江戸を蹂躙した。消失した町八百、大名屋敷八百十、神社仏閣三百余り、橋六十以上が被害を受けたという。死者は10万人以上と言われている。確かに二ヶ月以上雨が降っていなかった。強風が吹き荒れたという条件はあったものの、何故?と首をかしげたくなることがある。当時の江戸は秩序なく、猛烈な拡大を見せていた。徳川幕府への忠誠心を示すために大名は競って屋敷を建てた。その家臣、それらを相手にする商人、その屋敷や店を立てるための職人と数十万人が地方から押し寄せたという。なにせ江戸城大手門から歩いて直ぐのところの葺屋町に悪所吉原(火災で焼失したので、浅草の裏手の郊外に倍の広さで新吉原が出来た)があった。少ない土地に多くの人という無理に無理を重ねた江戸に大火が起きた。この当時は道や辻、火除け地がなかった。こういった無秩序状態を解消するために幕府自らが火を付けたという疑惑があるという。為政者のやることだから、これもありうるのだろう。実は本郷からの失火は南に下り、江戸城の東側を焼き尽くし、海に到達して鎮火しているのだ。それから半日経ってから、今度は江戸城の北側から再び出火したのだ。これは南に下り江戸城をも焼き尽くし、海に達して鎮火、この最中にまたまた江戸城の北西から出火し、南下して海で鎮火している。何でこんなにも別なところから、時間が経って鎮火した後に出火したのか?火の広がりを示した図がある。(写真:K5)

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不思議であり、幕府の謀略説はかなり正しそうだ。特に最初の火元のお寺には咎めすらなく、幕府により再建されていて、以前より大きくなったというからおかしな話しだ。その後、火事の教訓から、火除け地や広い道路、瓦屋根の推奨、避難場所の確保を行うようになり、消火部隊としての「火消し」の制度も設けられた。但し、当時の火消しは建物を壊して延焼を防ぐのが目的で、決して消火をしようとするものではなかった。(写真:K2)
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火消しの衣装を見てみよう。(写真:K3)
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(写真:K4)
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手押しポンプもあったが、これは火消したちの着物に水をかけて塗らすためだった。纏(まとい)はここから後ろは壊すぞという最前線で上げたという。(写真:K1)
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その後、幕府は土地の確保のために、隅田川の東側の土地、本所を開拓、開発し、本所と深川に居住地を移していった。そして被災者を祀るために「回向院」を建てた。そうそうこの火事は「振袖火事」とも呼ばれるようになった。これは出火元の寺で大商人が若くして亡くなった娘の供養のために振袖を焼いたところ、その火の粉が寺に引火したというのだが、これなどは幕府が後にばら撒いた噂のようで、そんな事実はなかったというのが通説になっている。