「江戸時代の歌舞伎と大名屋敷」

「江戸東京博物館・常設展3」
「歌舞伎」
歌舞伎を演じている場の等身大の模型だ。舞台は「助六」の一場面だ。(写真)K1)

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当時でも今でも歌舞伎は庶民の娯楽の中心だった。しかし、歌舞伎小屋はあくまで仮設の小屋掛けであり、むき出しの柱に茣蓙掛けだった。これは火事対策のためだという。朝から夕方までの芝居だが、明かりが入りにくいので舞台の前にはロウソクが灯されていて辛うじてロウソクの明かりで舞台が見えるという具合だ。照明というには程遠い。従って役者は顔を白塗りにして目立たせようとした。結果、善人役は白塗り、悪役は赤塗りなどとなっていった。これは中村座の再現だから表に出てみよう。(写真:K2)
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正に看板が並んでいる。役者の名前も書かれている。そこから二枚目、三昧目という言葉が生まれた。(写真:K3)
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ご存知の通り、二枚目はいい男、男前、三枚目はちょっと劣った男、脇役ということになる。演目もこのように書かれていた。(写真:K4)
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何というのだったか忘れたが、お客を入れるところ、入り口だ。勿論ここでお金を取った。(写真:K5)
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アルツ気味だなあ。木戸だったか。物忘れが激しい。でも歌舞伎は昔も今も大いに流行っていた。

「大名屋敷」
江戸城は勿論城郭だから、戦闘を想定して造られていた。内堀を背負って御三家、譜代の大名屋敷が並び、その外側に外様の屋敷が配置されていた。ここで見てもらうのは譜代の福井藩の上屋敷だ。17世紀半ばだからまだ大坂夏の陣を経験した人たちが生きていた時代だ。(写真:D1)

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従って、屋敷も戦闘用の仕組みで出来ている。塀の部分には長屋が組み込まれているが、この長屋、実は二階建てで戦時の際には、二階の窓から銃や弓を撃てるようになっているし、角には櫓まである。小さな城なのだ。(写真:D2)
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大名屋敷には入り口が正面に3つある。勿論中央は正式の門だ。〔写真:D3〕
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しかし、ここは大名のみが使う門だ。実はこの他に家来たちが使う門と、将軍お成りの際にのみ使う門とがあった。当然、この屋敷は明暦の大火で焼け落ちたのだが、後ろにある絵をご覧ください。〔写真:D4〕
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実は屋敷の平面図は残されていて建物の配置は分かっていたのだが、この絵が福井で発見されたことで屋敷の細部が分かり、このように再現されたという。貴重な発見だ。何度も申し上げるが、当時は平和な時代になったばかりでまだまだ戦時の模様を色濃く残していた大名屋敷だったのだ。ここでも「表」と「奥」がある。表は政治を行う場であり、奥は大名の家族の私的な住まいだった。