「さいたま歴史研究会―18」
先月は宅配便の到着を待っていたために欠席した歴史研究会に今月出席したら、新たな女性陣が3名増えていた。今回のテーマは、「海軍兵食を麦飯に変えた医者、高木兼寛」だ。最近NHKBSでも放送されてというから偶然だったが、この人、高木(たかき)氏は今の宮崎県高岡町に1849年生まれ。抜群の頭脳優秀で薩摩藩の医学塾で学び、漢方から西洋医学、それも蘭学を学んだ。戊辰戦争で医者として従軍し、日本の医者のレベルの低さを知り、英国公使館医師のウイリス氏に師事し、明治3年彼が鹿児島で開いた「鹿児島開成学校」へと進む。授業は全て英語。高木は当時からかなり英語が出来たようだ。明治5年に築地にある海軍省(今の築地市場のところ)へ出仕した。明治6年、海軍医学校が出来、イギリスよりアンダーソン氏が来日し教えた。高木はこの授業の助手として英語の通訳を行った。こうして陸軍はドイツ医学、海軍はイギリス医学と密接な関係となる。当時の海軍病院では脚気患者が4分の3を占めていた。これが高木が脚気との初めての出会いだった。明治8年イギリス留学が決まる。既に結婚していたが、単身でロンドンに向かう。セントトーマス病院には世界各国から留学生が集まっていたが、高木の英語能力が素晴らしく、他の生徒から大いに尊敬されたという。勿論成績も抜群で明治9年には学内で3位、翌10年には1位の成績となった。明治11年にはイギリス外科学校の会員証を受け、更に内科、産科の資格を得、明治13年帰国、海軍病院長で中佐に昇任した。当時の海軍の問題は脚気患者が非常に多く死者も多数出たことだった。明治14年の例を見ると、海軍兵数4641名、内脚気患者1163名、死者数146名であった。同時に航海中にも脚気患者が多発したことだった。これでは戦争など出来ないと考えた高木。原因を調べ始める。航海中では海の上では脚気が発生するが、外国の寄港地では発生しないことが分かる。江戸時代にも「江戸わずらい」として脚気が江戸では流行っていた。原因は米食にあった。外国へ行くと脚気は全くない。従って日本の風土病、それも細菌によるものだと信じられていた。高木は主食の米食に一部「うどん」(小麦)を入れさせたところ、脚気が激減した。パン食を嫌う兵隊を納得させるためのうどんだった。一方、陸軍は森林太郎(鴎外)がドイツで学び、医師のトップに立つと米食は変えなかった。風土病の細菌説を取ったためだ。この影響はその後の日清、日露の戦争で顕著になる。明治27年の日清戦争では、海軍は動員兵数3096名中、米麦食のために脚気は34名、死者ゼロ。一方陸軍は戦死者977名、病死者20、159名、脚気患者34、783名(死者3944名)だった。しかし高木の説は世の中に受け入れられなかった。高木は貧しい人に無料で医療を提供する「成医会」後の「慈恵医大」の前身を作る。明治43年に鈴木梅太郎(東京帝大教授)がビタミンBの欠如が脚気の原因だとした。話しは長くなったが、ここで脚気の勝負は付いた。陸軍、即ち森の負け、海軍、高木の勝ちとなった。森は遺言で墓には名前と出身地以外は記載するなと明言している。陸軍の医者のトップだったことは書くなということだった。今ならば当たり前なことだが、明治の時代ではなぜ日本でのみ脚気があるのかが分からず、風土病説、細菌説がまかり通っていた。その風穴を海軍のために開けたのが、高木だった。素晴らしい医者が日本にもいたことを知った。