「南蛮人と紅毛人」

「江戸の庶民の生活は楽だったか?88」
「南蛮人と紅毛人」
南蛮人と日本人が呼んだのは、髪が黒い者が多く、南ヨーロッパに住む人達、即ちラテン系の人達で、最初に渡来してきたのは、1543年に種子島に着いたポルトガル人だった。鉄砲の伝来である。一方、紅毛人と呼ばれたのは、その後に日本にやってきたオランダやイギリスの人たちでその特徴から紅毛人と呼ばれた。
そして彼らが東洋から持ち帰ったものの中で、中国製の磁器は「チャイナ」と呼ばれ、日本製の漆器は「ジャパン」と呼ばれ非常な人気になっていた。

「大名屋敷跡の発掘」(さいたま歴史研究会より)
墨田川沿い両国端際の大名屋敷跡の発掘で分かったことがいくつかあった。それは年代により地層が分かれていたということだ。当然隅田川は氾濫もしただろう。水害もあったろう。驚くことに火事の跡も度々見られているということだ。江戸は度々大火に襲われた。そして家屋敷を焼き尽くし、その上の新しい建物を建てた。何年か後に水害で土砂が堆積した等々のことで地層が出来ていたのだった。逆に台地の上にあった加賀藩の上屋敷(今の東大本郷)にはそういう地層が見かけられない。
さて明治維新で大名家はなくなった。当然江戸の屋敷はこれまでは幕府から借り受けていたものなので、自動的に明治政府に接収された。だから彼ら武士団は当時の日用品を残して帰国した。だから放置された皿や茶碗等の陶磁器も沢山発掘されている。江戸は百万人の人口を抱えた世界一の大都市だったのが、武士団が帰国したために、人口激減したという。(写真:3S会サーさん提供、埼玉県の福寿草2)福寿草2