「温水プールにて」

「温水プールにて」
さあ、いよいよメインイベントのプールだ。栞はこれが目的での旅だから、もう大はしゃぎだ。早速浮き袋を膨らませてプールに入る。プールを一周してきたら、今度は滑り台だ。数mの高さから、滑ってどぼんと落ちるのだが、それでも結構水に潜るようだ。子供はこれが一番楽しいらしい。(写真:滑り台にて)

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栞は週に何回かスイミングスクールに通っているので顔を浸けての泳ぎも大分出来るようになった。(写真:潜水姿)
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2時間も泳いでいたら、疲れたようで、風呂に入って身体を温めてから昼食を取ることとした。ホテル内では面白くないので近くまで歩いて行った。最初の店は座敷しかないので、膝が悪い私は座れないので止めて隣の店に入り直し、地元の魚料理を食べた。ホテルに戻ってから孫たちはお昼寝をし、風呂に入ってから食事に行ったが、昨晩と同じメニューのビュッフェなので新鮮味は全くなかった。夕陽が山の向こうに落ちていった。(写真:日没)
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翌日もチェックアウトした後でプールに孫たちを連れて行き泳がせる。とはいっても私はプールサイドで見守るだけ。プールには一度も入らなかった。それでも2時間はたっぷり栞は泳ぎ水遊びをしていた。着替えてロビーに戻り、コンビニで買ってきたお握りを食べさせる。(写真:ロビーにて)
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午後の日差しが眩しい。(写真:陽の光)
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帰りはホテル前から出るバスで東京駅まで行くことにした。電車ならば1時間だが、バスだと2時間掛かる。その日は連休最後の日だったから道路も混んでいて、結果としては2時間半掛かったが、バスの方が楽だ。乗り降りや上下の昇降がない分、私には楽なのだ。お疲れ様でした。流石に孫の相手は疲れる。

「さいたま歴史研究会10」
久々に3S会のメンバーと共に歴史研究会に出席した。9月以来の出席だから随分とご無沙汰していた。本日のテーマは太平洋戦争直前の日本だ。まずは「ノモンハン事件」だ。満州国(日本の傀儡)とモンゴル人民共和国(ソ連の傀儡)の国境線紛争だが、昭和14年5月から関東軍とソ連軍が直接戦闘状態に入り、8月にはソ連軍が一斉攻勢に出た。関東軍24師団15140名の内、戦死行方不明が1万人を超える大敗北を蒙った。その後現地司令官4名は自決を強要された。完全にソ連の機動部隊の火力に敗れたのだった。関東軍の敗因は老朽化した戦車と火力の差によるものだった。戦前の日本の内郭は首相は元老院の推薦により選ばれていた。そして組閣に当たり一人でも閣僚が辞任すると即内郭総辞職となってしまった。これが陸軍大臣の去就によって次々と内閣の総辞職が起こったという。その頃「日中戦争」は泥沼化していた。蒋介石はソ連からの援助を得て、遂に重慶にまで逃げていたが、それでも徹底抗戦していた。昭和16年4月には「日ソ中立条約」を結ぶ。それ以前、松岡外相により昭和15年9月に直前にポーランド侵攻していたドイツとの間に「日独伊三国同盟」を調印していた。ドイツとの結びつきにより北からのソ連に圧力をかわしつつ、南方に侵攻しようとする意図だった。しかし、同じ頃ワシントンでは野村大使とハル国務長官による外交交渉が始まっていた。そして「ハル・ノート」と呼ばれる4か条の条件が出され、これを受けるか否かで内閣内は揉める。これに真っ向から反対したのが松岡外相で、7月近衛首相は松岡外相を更迭し総辞職するのだった。もう戦争の足音はすぐそこに迫っていた。そして近衛が再度首相になるのだが、7月21日軍部はフランス領インドシナへと進駐してしまう。アメリカはハル・ノートの受諾が最低条件だということで石油や鉄くずの禁輸を実施する。もう戦争は避けられそうにない状況になった。近衛はルーズベルト大統領との個別会談を申し込むが、「基本原則の同意がない限り会段に同意出来ない」と回答してきた。それは(1)国家主権、領土の尊重、(2)内政不干渉、(3)通商の機会均等、(4)太平洋の現状維持であった。これは中国、仏印からの全面撤退の意味だった。12月1日の御前会議で開戦を決定した。アメリカはこの時既に日米の戦争は避けられないと覚悟していたのだろう。だから日本が絶対に飲めない条件を出したのだろう。それに載せられた日本の政治家、特に軍部の考え方の惨めなことに改めて驚かされる。それと責任の取り方だ。ノモンハンの責任は現地責任者、それも将校のみに押し付けられ、司令官は無罪放免だった。実戦部隊が悪いというのが結論だった。ここに日本軍の本質、即ち失敗を反省し、過ちをなくす努力をしないという体質が浮き彫りに成ったといえよう。我々戦後世代はこの辺の歴史を習ったことがない。どうしてなのだろうか?