「人生は旅の如くNo.4ー2009年編第2話・6月に上海にて」

「J  REPORT 2024 4月第3週号」
「リタイアメント・ノート 14年10ヶ月目」
「VOL.1363 SINCE  AUG.12th、1983」

「走るな! 転ぶな! 風邪引くな!」が老人には大切らしいです。㔟古口
追加して「癌になるな」もね。

「人生は旅の如くNO.4-2009年編・第2話、6月の上海にて」
私の日程管理はアナログのエルメスの手帳だ。(写真:A1)
いつもはぎっしりと埋めているはずの予定が殆ど白紙状態だ。理由は簡単だ。行動力がなくなり自宅で過ごしているからだった。あるのは通院予定のみ。だから新ネタもなく、過去を振り替えざるを得なくなった。2009年の12回の海外旅行の始めは5月のイギリスだったが、続いて6月は中国上海、7月は韓国、8月は台湾を訪れた。
ところで前週号のイギリス編を読まれた友人でイギリス滞在3度となるM君から鋭くまた実に詳しい情報を頂いたのでご紹介させてもらうこととした。

M君レポート:
ローマ帝国は、5世紀のゲルマン民族大移動より以前、ブリテン島(現在の
英国の主要部を成す島)を数百年に渡り領土としていましたが、その時代には、
島の人口は少なく、しかも住民は(現在の大半であるアングロ・サクソンでは
なくて)ケルト人だったらしい。
 4~5世紀にかけ、フン族の西方移動に追われるように、ゲルマン民族の
大移動が起き、彼らが、現在の北ドイツ辺りの故地から、ブリテン島に侵入・
移住し、この島の主たる住人になりました。
 このゲルマン人(の部族)を、一般に、アングロ・サクソン人と呼んでいます。
彼らは、ブリテン島で、自分達の王国を築きました。 England というのは、
Angle人(アングロ人)の土地、という意味です。
 その後、1066年に、現在のフランスのノルマンディー半島に居住していた
ノルマン人がブリテン島に攻め込み、ブリテン王ハロルドと、ノルマン王ウィリアム
の戦いを制したウィリアムは、そのままブリテン島に住み着いて、ノルマン王朝を
創始。これが英国史で言う、“Norman conquest” です。 ノルマン王朝創始者である
ウィリアムは、“Willian the Conqueror ” (ウィリアム征服王)と称されています。
 因みに申しますと、ノルマン人(Norman)というのは、10世紀頃に、スカンジナビア
半島から現在のフランスのノルマンディー半島に攻め込んで、そのまま定着してノルマン
王国を建てたたゲルマン系の人種です。現代の北欧の人を見ても分かる通り、体格が
大きくて、同じゲルマン系であるアングロ・サクソンだの、ローマ帝国のラテン系より
強かったのです。
 ノルマン人は、そもそもはゲルマン系ですから、言語もゲルマン系を話していた筈
ですが、ノルマンディ半島に定住した後、文化的には、被支配民族であるラテン系の
フランス人と同化し、フランス語を話すようになっていました。
 そのノルマン人が支配階級になったので、ブリテン島では、支配階級はラテン系の
フランス語、被支配階級のアングロ・サクソン人は、ゲルマン系の言葉を話すという
分裂状態が起きました。
 両階級の間で、当然様々な大量の交流が有りますから、言語も混交して行きました。
これにより、ゲルマン系の語彙・文法とラテン系の語彙・文法が混在・共存するように
なり、英語の原型が出来て行ったのです。 これは、ヨーロッパ言語の中でも、英語だけ
に見られる特徴です。
 被支配階級は、教育・文化レベルも低かったので、混交の過程で簡略化が起きました。
その結果として、英語の名詞には、性別が有りませんし、形容詞は語尾変化しません。
そして、この簡略化のお蔭で、英語は学び易い言語になり、又、ゲルマン系とラテン系
両方の語彙を持つという、語彙豊富な言語になりました。
 我々の子供時代、TVの30分連続番組で、“ロビン・フッド” という弓の名手の反政府
集団?のお話しが有ったのをご記憶でしょうか?
 ロビン・フッドは、ノルマンの支配に抵抗するアングロ・サクソン集団のリーダーだった
のです。

と原文のまま掲載させて頂きました。M君ありがとうございました。面白い話しですね。

ということで話しを元に戻そう。
まずは上海だ。実は上海は2000年に続いての2度目。中国には3度目(1997年が最初)の旅だった。
当時現地の責任者として赴任していたM氏ご夫妻を頼り妻と訪れた。一番印象的だったのは租界と言われた古い上海にある超有名なレストランにて胡弓の音に導かれて中華料理を堪能したことだった。租界は戦前の上海にて治外法権の外国人勢力の植民地のようなもので、対岸は浦東で経済特区でもあり中国発展の象徴的な近代的超高層ビルが立ち並ぶ。一方こちら側はタイムスリップしたような西欧風の建物群がある独特の雰囲気の土地だった。近くには名園・豫園があり戦前に舞い戻ったような気がしたものだった。2008年の時も上海から蘇州や杭州等の有名観光地や寒山寺等を廻ったが、改めて中国の歴史の奥深さを味合うことが出来た。
ただいつもの如くツアー客は最後は土産物店に拉致監禁され強制的に買い物をさせられるということになるのでした。安いツアー程この買い物が逆に高額になり業者にとって釣り合っていることになるのは今も続く周知の事実でした。中国料理はまあ美味しいのだが、油物ばかりだから飽きてしまうことも多い。それと当時は替えの取り皿、茶わん、取り箸が出て来ず、同じ皿や器で何品もの料理を食べること、習慣の違いから各自が直箸で大皿料理を食べることの衛生状態に不安を感じるようになり所謂「マイ箸」を持参するようになった。この時既に香港には何回も訪れていて朝食の飲茶に行くと現地の人たちはまず自分の皿、器、箸等を出て来た熱いお茶で洗っているのに遭遇した。彼ら自身も衛生状態に不安を抱えていることが分かり早速真似した。今は流石にそんなことはないとは思うが、彼我の差は歴然としていたと記憶している。所詮日本人ツアー客には安い店にしか採算上行かないから仕方がないのだった。中国にはその後も度々行くのだが、未だに好きになれない国の一つであるのでした。