「春の大雪」

「J  REPORT 2024 2月第3週号」
「リタイアメント・ノート 14年8ヶ月目」
「VOL.1354 SINCE  AUG.12th、1983」

「走るな! 転ぶな! 風邪引くな!」が老人には大切らしいです。㔟古口
追加して「癌になるな」。

「春の大雪」
立春になった途端に例年訪れる南岸低気圧がやってきて、都心も大雪となった。
自宅より。(写真:A1)
白銀の世界になった。(写真:A2)
驚いたことに雷鳴が更に鳴り響いた。
都会は雪に弱いので心配していたが、翌朝には雪も止みどうやら山は越したようだった。
2月と言うと、受験シーズンだ。私の受験は2度あった。最初は小学校入学時で、「横浜国大付属小学校」を受験し,クジ引きで落ちた。2度目は中学受験だった。小学5年6年と塾通いをしていて、受けたのは横須賀にあった当時県内でもトップクラスの進学校だった「栄光学園」と、家が近い日吉の「慶応義塾普通部」の2校だった。憧れていたのは栄光学園でその制服には胸をときめかせたものだった。結果両校とも合格したが、両親の強い勧めもあり、慶応に進んだ。昭和36年2月の事だった。普通部の試験で覚えているのは「算数」だ。10問を30分で解くというもので、私はまず全問を読んだ。それで出来そうなものと難しそうなものに分け、易しいものから解いていった。その後難しい問題に進み、全問解いた後に数回見直したから、多分全部出来たと思っている。
1学年250名の内、所謂内部進学者が幼稚舎からの100名に外部進学者が150名だった。一番困ったのは英語だった。幼稚舎の連中は英語を既に習っていたが私などは全くABCから始めなくてはならなかった。しかし手帳にカタカナで発音を書き取り何とか勉強した記憶がある。今も付き合っている同級生の一部は夏休みに英語の補講があり参加したということだったが、私にはそんな記憶はない。でも慶応と言う学校自体を殆ど知らなかった私にとっては新しいことばかりで目まぐるしく過ぎ去る日々だったが、楽しい中学生活だった。3年生の時に学校代表として「高松宮杯争奪中学生英語弁論大会」に出た。私が作った文章の題は「A Little Kindness」というもので全て人の手を借りずに作文した。当時小さな親切運動と言うのが流行っていたのでそれを題材にした。ネイティヴの先生の前で練習発表をした時に注意されたことが今もはっきり覚えている。発音の一つだったが、単語は正確には覚えていないのだが、発音の要旨は「cars」と「cards」との違いだった。前者の車の複数は日本語で言えば「ズ」だが、カードの複数は「ds」、ドゥズとなる。後者は舌を上の前歯の根元に充ててそのままズと発音するようなものだというのだ。こんなこと初めて教えてもらった。結論からすると県大会で敗退したがいい経験をした。その県大会で優勝したのが栄光学園の生徒だった。彼は全国大会でも優勝したが、大学は慶応に進んできたと後になって知った。その後慶応義塾高校から、慶応義塾大学経済学部を1971年3月無事卒業した。高校と大学の7年間アメリカンフットボールに明け暮れたことは間違いない。
因みに小学校は横浜市立青木小学校で横浜に明治後初めてできた小学校の一つで本町小学校と並ぶ最も古い小学校だった。