「人それぞれ、人生はドラマの如し、医師S君のお話し」

「手前勝手世界食物語、第628話」
「人それぞれ、人生はドラマの如く」
「医師S君のお話し」
神奈川会の6月の例会はいつもの野毛小路の「海とはたけ」で開催された。毎月参加者の一人が人生の転機を話す「私の履歴書」の披露ということになっていて、今回は医師のS君の番でした。この集まりは中学の同級生の飲み会なのだが、幼稚舎からの進学者は主催者のM君のみで他の7名は外部進学者で当時でも18倍の競争率を潜ってきた強者?なのだ。
さて医師のS君は実家が産婦人科医で、お父様は幼稚舎から本大学の医学部卒で開業医になったというのだ。元々室町時代より医業が家業であり、江戸時代には越後(どこの藩かは知らないそうだが)の藩の御典医の家系だそうだ。そこで医師になるのは当然というのが家訓でもあったようだったが、S君自身は高校時代も一所懸命にスキーと麻雀に明け暮れたそうで勉強は殆どしていなかったから、当然本校の医学部へは進学出来ず、2浪して医学系専門大学の昭和大学を目指したそうだ。無事合格後が「白い巨塔」ならぬ「黒い巨塔」の荒波を泳ぎ切った人生の話しが始まった。
S君の履歴書によれば、大学医学部入学後6年で無事卒業し優秀な成績で医師免許を獲得し医学部産婦人科学教室入局(1975年4月)、1982年4月医学博士号取得、外部病院への出張や医長、講師を経て、1984年3月から米国ピッツバーグ大に2年間留学。帰国後亀田病院産婦人科部長を2年経験し、1990年5月昭和大学の産婦人科助教授、2006年1月から昭和大学・藤が丘病院助教授、2007年2月教授になり、2014年3月退職の輝かしい職歴となっている。
以下は主催者M君が纏めた文章があるので、それを掲載させて頂きたい。M君宜しいですね。
ではその教授への道筋が実に大変だったようで、それを纏めたM君レポートに登場してもらおう。
その前に各病院にはそれぞれ大学医学部の影響力が非常に強くあり、特に東京大学の力が大きく、昭和大学産婦人科教授を東大医学部が握っていたポジションだったということを覚えていてもらいたい。
M君レポートによれば、S君が達成した世界的な発見は、妊娠している母体の血液中から胎児のDNAを検出し、それを利用して母体の負担が少ない簡単な検査で異常妊娠を発見し、更にその内容を相当程度まで正確に判定出来るという研究開発をS助教授(当時)とS君の弟分である「SS医師(現教授)」とが世界最初に実現することを見つけた。研究成果をまとめた論文が世界的に評価の高い医学雑誌、英国“ランセット”に掲載され、そこで高い評価を受けたという。世界的評価の結果、従来は東大からの派遣者が既得権となっていた昭和大学産婦人科教授ポストを昭和大学出身者が占めることになったという。
その後S君は客員教授を経て、横浜市北部病院勤務し、現在は悠々自適な生活で房総半島の別荘でのサーフィンに興じていると聞いている。まあ留学中の話しとかここには掲載出来ない面白い話しも沢山あったが、それは黒い巨塔の脇の話しとして除けておこう。それと医学部の教授というのは我々が認識している一般的な大学教授とは色合いが違い、一国一城の主であり人事権を持つ絶対的な社長だということだろうか。
因みに奥様の家系も医師だそうです。凄い家族ですね。
さあ、食事もお酒も進めますよ。
「三浦の野菜盛り合わせ」(写真:A1)
「突き出し=マグロ中落」(写真:A2)
「三浦半島地場の魚の盛り合わせ」(写真:A3)
「ピッザ」(写真:A4)
「厚揚げ」(写真:A5)
「焼き鶏」(写真:A6)
73歳から74歳のお爺さんたちです。(写真:A7)
皆、元気です。来年は後期高齢者ですが。
以上、連続猛暑日が続く東京より勢古口がお送りしました。