第七日目 12月18日(火)

朝一番で「ユーラシア大陸最西端」の「ロカ岬」に行く。オフシーズンだから観光客は我々だけ。これまでずっと天気が悪かったのだが、この瞬間のみ太陽が照ってきていて、大陸最西端に立ったという気持ちになった。「証明書」も書いてもらいご満悦で写真を撮った。さて江戸時代だが、「仙台伊達藩」の藩士たち30数名が「遣欧使節」として伊達政宗の命でこの地を経由してローマにまで訪れていた。その内、10名内外の武士が結局この地に残り地元女性と結婚して、今その血脈が残り、230名もの「ヤパン」さんという姓の人たちがいるという。400年前のお話しだが、日本人の血が辛うじて残されていたという感動的な事実だった。だがこの事実は数百年に亘り極秘とされていて、幕末に岩倉具視や福沢諭吉らが欧州を訪れた際、地元からその事実を知らされたという不思議な物語なのだ。リスボン市内に戻ってきて最後の観光だ。有名な「ジェロニモ修道院」にはあの「ヴァスコ・ダ・ガマ」の遺体を入れた棺もある。ポルトガルにとって「大航海時代」を切り開いた偉大な人物なのだから、当然といえば当然だ。その海側に大きなモニュメントがある。それはまさに大航海時代を象徴する「エンリコ航海王子」らが乗った船が船出しようとしているその姿だ。「発見のモニュメント」と呼ばれるものだ。「エンリコ航海王子」没後500年を記念したものだという。ヨーロッパの小国だったポルトガルが全世界にキリスト教の布教と合わせて「植民地」を作っていた偉大な歴史の端緒なのだろうか?モニュメントの下の床に世界地図があり、日本には「1451」とあり、「種子島」漂着の1453年の2年前にはポルトガル側の記録では大分に行ったことになっているようだ。立ち並んでいる人たちの先頭は勿論「エンリケ」、3番目に「ヴァスコ・ダ・ガマ」、そして後ろから2番目に「フランシスコ・ザビエル」がいる。さて、午後から市内を一人で探索する。ごみごみした坂の多い街だ。「一日乗車券」@5.5ユーロを買い,「フニクリ」と呼ばれる「路面式ケーブルカー」で急坂も登った。疲労もピークに達しているので、早々にホテルに戻った。聞くと添乗員さんは12歳までヨーロッパに住んでいたというから語学堪狽ネのも分かる。明日は帰国だ。9日間長いようで短いようで、それでもあっという間に旅でした。

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