「王子神社」

「パパの会」
昭和29年卒の大先輩が監督をされていたのは、私が高校時代と大学1年生の時だった。しかし、昭和56年にまだ40代の若さでお亡くなりになった。その時は大手広告代理店の取締役だった。通夜に訪れた我々は余りの参列者の多さに列から外され、帰宅を強いられた記憶がある。兎に角一言でいえば高潔そのものの方だった。そんな先輩をしたって、未だにあだ名である「パパ」に因んで「パパの会」を開催している。来年にはこの会も30回目となるという。私たちの年代が一番下の代で、5年前から万年幹事を引き受けている。当初は先輩への親しみを込め、偲ぶ会だったようだが、毎回未亡人の奥様が来られていたのが、高齢のため、この数年は欠席されるようになり、今では昭和37年卒から私たち昭和46年卒までで集まれる人は集まるという形になってきている。万年幹事の私は今年も会の前に、お墓参りをさせてもらった。等々力にある萬願寺にその墓はある。(写真:P1)P1
その日は台風崩れが千葉県に大雨を降らせていた日で世田谷も大雨だった。(写真:P2)P2
一人で墓前に佇み、般若心経を唱えさせて頂いた。

「王子神社」
江戸時代から桜の名所として知られている飛鳥山の北側、今は明治通りの向こうに小さな渓谷がある。(写真:B1)B1
(写真:B2)B2
その渓谷の隣の山に「王子神社」がある。どうも裏口から来てしまったようだ。(写真:B3)B3
階段が続いている。(写真:B4)B4
社があった。(写真:B5)B5
徳川家康が社領200石を寄進し将軍祈願所と定めた。八代将軍吉宗の時代に飛鳥山と王子権現は桜の名所として有名になった。境内だ。(写真:B6)B6
こうして分かるように神社というものは高台の比較的安全な場所に築かれたものなのだろう。
阿吽の狛犬があった。(写真:B7)B7
(写真:B8)B8
神輿があった。(写真:B9)B9
ここは「東京十社」となっている。(写真:B10)B10
大きな鳥居だ。(写真:B11)B11
逆に表門に出てきた。(写真:B12)B12
古くから伝えられてきた「田楽舞」は戦前「喧嘩祭」の異名で有名だったという。
穏やかな日だった。