「聖徳太子と達磨大師の不思議な物語」

「聖徳太子と達磨大師の不思議な物語」
奈良県王寺町主催で有楽町の朝日ホールで開かれたセミナーに4S会のメンバーと参加した。(写真:S2)S2
2022年は聖徳太子没後1400年だという。帝塚山大学の西山先生が語られた不思議な物語でした。(写真:S1)S1
王寺町とはどこに位置するのか?法隆寺で有名な斑鳩町の南隣にあり、そこに達磨寺がある。法隆寺の南西に達磨寺、その更に南西に聖徳太子の墓(叡福寺)がある。だから法隆寺―達磨寺―聖徳太子墓と繋がって「太子葬送の道」がある。
その達磨寺の本堂に三体の像がある。(写真:S3)S3向かって左側が聖徳太子坐像、中央が千手観音坐像、左手が達磨大師坐像だ。
まず千手観音から見て行こう。千本も手があるわけではないが、実際には392本の手がある。これは実に珍しいもので普通の千手観音では42本の手で千本の手としている。更にそれらの手の全ての手のひらに目があり、水晶がはめ込められている。
次に聖徳太子坐像だが、これは鎌倉時代の1277年に造られた像で、座高の高さが78.5cmでこれは聖徳太子と同じだということで推察すると太子の身長は175cmとなる。法隆寺金堂にある太子像は釈迦三尊の立像でこれは178cmあり、太子と一緒というので、まあ大体この程度の身長だったと考えられるという。当時の人としてはかなり高かったのだろう。
達磨大師坐像は室町時代の1430年に集慶によって造られたものだ。だが実際には達磨大師は日本に来たことがない。しかし、聖徳太子と達磨大師は会ったことになっているというのだ。実はこれが不思議な物語で、中国の有名な人たちの生まれ変わりが聖徳太子であり達磨大師だというのだ。その辺りの話しはちょっと不可思議なので割愛する。
聖徳太子像だが、胸の前、正面に杓を持っているが、これは執務中の姿という訳だ。太子は階位十二階や憲法十七条、遣隋使などで推古天皇の摂政として活躍したことは知られている。特に有名なのは日本書紀にある十人の人の訴えを聞き取り、未来を見通した回答をしたという。それほど頭の切れた人だった。また、憲法の一条では「和を以って、貴つとし」とするとした。二条では「篤く三宝を敬う」として仏法を重要視した。十条では「人の心は皆違うからやたらに怒っても仕方ない」というようなことを述べている。「共にこれ凡夫のみ」としている。
聖徳太子を尊敬した人に親鸞がいる。浄土真宗を起こしたのが親鸞だが、彼は太子を実に深く尊敬していたという。
話しを元に戻して達磨寺だが、本堂は一段と高いところにあり、実は古墳の上に建てられている。発掘の結果、中からは水晶の器に入った釈迦の骨の一部(仏舎利)も見つかったという。
聖徳太子が飼っていた犬が「雪丸」といい、石の像も境内にある。また、境内に二つの石があり、これが「問答石」と言われており、聖徳太子と達磨大師が問答したので二人がその石になったというのだ。
「秋さびし 問答石に 鳩ふたつ」

以上、漸く朝晩の涼しさが感じられるようになった東京から勢古口がお送りしました。