「スバルの前身は中島航空機」

「さいたま歴史研究会―27」
「スバルの前身は中島飛行機」
創業者は「中島知久平」で、明治17年群馬県押切郡に生まれる。海軍大学卒業後、アメリカに留学し、飛行機の研究、操縦を習う。昭和5年衆議院議員に当選、政友会に属す。昭和20年東久邇宮内閣の軍需・商工大臣を務める。昭和24年66歳で死去。終戦後レッドパージにあうが、無事解放された。
彼はアメリカでの経験から「戦艦一隻の費用を使えば、優に3000機の飛行機を製作できる。飛行機の戦力は軍艦より遥かに優れている。飛行機は一か月の日時で完成する。今民間の会社を興して、官営中心の流れを変えないと、国の運命はどうなるだろうか?」と考えて、巨艦戦艦主義の軍部に反発して、自らが出資して、大正6年に群馬県に航空機生産の研究所を造った。
そして大正8年、外国製のエンジンを使い、機体は国産の飛行機を製造した。
また大正末期から昭和初頭に、現在の杉並区にエンジン工場を造り、国産エンジン「寿」を開発した。9気筒の小さなエンジンだった。(注:終戦時には18気筒2000馬力の大型エンジンも造った)
満州事変から日中戦争を経て、航空機の重要性が増し、13年に東京都武蔵野街に、陸軍機用エンジンの「中島飛行機・武蔵野製作所」が出来る。この工場は拡大に拡大を続け、敷地81万坪、従業員45,000人にもなる。
その生産機数は、20年までの累計で名古屋の三菱重工業を抜き、日本一となった。
では、どのような飛行機を製造したいたのか?
「陸軍機」
九七式戦闘機「隼」=海軍の「零戦」と同じ。昭和15年が紀元2600年ということで、隼は昭和12年に、零戦は昭和15年に造られたもので、エンジンは一緒だが、その仕様、内装等が違っていた。
その後、次々と改良がなされ、隼は一式では、陸軍最多の5760機を生産、時速495kmを出した。次の二式では時速580~605kmを出し、B29迎撃用となった。四式では「疾風(はやて)」は米軍機とも互角に戦ったが、急造のため故障も多く、また燃料の質の低下もあり、その力を発揮できなかった。
「海軍機」
九七式艦上攻撃機、双発陸上爆撃機「銀河」、夜間戦闘機「月光」、艦上攻撃機・魚雷搭載可能「天山」、「零式艦上攻撃機(時速518km、航続距離2200km)」等を造った。
零戦は三菱が開発したが、18年末までには三菱を抜いて中島の生産量の方が上回った。因みに累計製造数は三菱1029機、中島は1967機だった。更に19年12月7日に「東海地震」が起き、三菱の工場は倒壊して生産続行が不可能となった。
一方、米軍は19年10月には、サイパン、グアム、テニアンに空港を設けて、B29が1437機動員され、本土空爆が始まった。このため、中島飛行機にも被害が及びだす。19年11月1日に航空機による写真撮影で中島航空機の武蔵野製作所の全容が確認され、11月24日から翌年20年4月14日までに合計11回、B29延べ1198機による空爆を受け、焼夷弾と爆弾投下は3974トンにも上ったという。これにより工場の94%は破壊された。死者220名、負傷者700名と言われている。
終戦間近の19年8月にはドイツより入手したジェットエンジンの戦闘機の設計図を基に、製造を行い、20年6月に「橘花」というジェットエンジン特攻機を完成させたが、試験飛行中に墜落、二機目も8月7日に木更津での試験飛行中に墜落していて完成はされなかった。
終戦の2日後、社名を「冨士産業」に変更、財閥解体により12社に分割されるが、5社が合併して「富士重工」となり、群馬県太田市の本社にて自動車の製造を始めた。2017年4月より現社名の「スバル」となる。
創業者の中島氏の先見の明には驚かされる。またこんなに沢山の飛行機を造っていたことを初めて知った。戦時中には大きくの勤労学徒動員があり、多くの女学生が工場で働いていたことも分かっている。男子生徒は軍隊に、女子生徒は勤労動員され、13歳から17歳の少女が働いていた。武蔵野女子高等女学院の生徒4名も空襲の直撃を受け死亡している。悲しい出来事だった。