「信長の城から見た天下統一」

「信長の城から見た天下統一」
M社の社友会で興味のある題材の講演会があったので久し振りに出席してみた。大先輩のI氏とご一緒した。まず弁当が出た。「なだ万」の弁当だ。老人向けの内容だな。でも美味しい。(写真:N1)

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(写真:N2)
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講師は奈良大学の千田先生。(写真:N3)
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今、城ブームだという。昨年の「お城EXPO2016」。(写真:N4)
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4つのお城が復元された。(写真:N5)
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特に名古屋城の襖は戦争末期に空襲を避けて疎開させていたので救われた品で、これも本物は湿度を避けて保存されているが、模写を飾っているという。織田信長だが、名古屋、清洲の後、桶狭間の戦いを経て小牧山城を築いたが、今その発掘調査が進み、驚くべきことが判明しつつあるという。(写真:N6)
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信長は小牧山には4年間(1563-1567)しかいなかったので、余り重要性はないと見られていたが、実は本格的な城を築いていたことが分かった。大きな石垣の跡が見つかったのだ。大きな石の後ろに「栗石(ぐりいし)」という小さな石を沢山積み、排水や地震の揺れの吸収を図った。(写真:N7)
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こうした本式の石垣と合わせて、硬い地盤を削り、地盤自身に石垣の役目を与えたものも見つかった。(写真:N8)
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小高い山の上の城には、図の矢印のように登っていった。(写真:N9)
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この時代の城の特徴に「懸け造り(かけづくり)」と言われるもので、石垣の途中や下から柱を伸ばしてその上に建物を造る。京都の清水寺を思い出してもらいたい。(写真:N10懸け造りの土台)
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石垣のところは懸け造りの中に階段を設けて登った。(写真:N11)
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このように小牧山城は予想以上に堅固な城だったということだ。
さて1567年に美濃の斉藤氏を滅ぼして岐阜城に移った。(写真:N12)
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信長一家は山の上の城に住み、家臣は城下に住まわせた。ここも栗石を用いた石垣が造られていた。(写真:N13)
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岐阜城の復元図。(写真:N14)
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信長の城といえば「安土城」だろう。本能寺の変の後、火災で焼け落ちたが、現在その発掘調査が進められている。ここでも信長は城の天辺、家臣は城下と身分の格差を示していた。(写真:N15)
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城下から城に向かって直線的に道が伸びている。大手道だ。(写真:N16)
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城の直下にきて、多分ここからは懸け造りになっていたと思われるのだが、曲がり角になって、そこを更に登る。(写真:N17)
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そこには素晴らしい天守があった。天守は懸け造りだった。(写真:N18)
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火災で焼けた瓦の破片。(写真:N19)
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その下には焼けた柱の跡があった。それからも懸け造りだったということが分かる。(写真:N20)
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懸け造りの例を見てみよう。(写真:N21)
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(写真:N22)
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天守から信長が民を見下ろす。(写真:N23)
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「秀吉と大坂城」
信長の後を継いだ秀吉だが、築いたのはご存知「大坂城」だ。(写真:H1)

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(写真:H2)
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特徴は「馬出し」と言われるもの。所謂出陣する場所、ここから軍が出発していった出入り口だ。(写真:H3)
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この馬出しは東日本で使われていた出入り口の方式で小田原攻め以降に西でも使われるようになった。
では「真田丸」はどうなっていたのか?真田丸自体が馬出しそのものの様な構造だ。(写真:H4)
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(写真:H5)
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真田丸の壁には沢山の逆杭が打ち込まれていて防御がなされていた。(写真:H6)
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「家康と江戸城」
信長と秀吉の後は家康だが、彼が築いた江戸城は信長、秀吉を超えた最強の城だった。(写真:I1)

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江戸城を描いた屏風が見つかった。(写真:I2)
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大天守と小天守があるのが分かる。姫路城と同じ連立式天守だった。(写真:I3)
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大天守の石垣の高さは21m。(写真:I4)
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大天守の建物の大きさは最上階まで47m。(写真:I5)
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合計で21m+47m=68m。他の城と比較するとその大きさが分かる。(写真:I6)
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しかし、明暦の大火で大天守も全て焼け落ちた。今ある天守台の石垣は後に加賀前田家が造ったものだ。当時のものは現存していない。(写真:I7)
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江戸城の堅固さの特徴の一つは複雑な「連続外枡形」の防御構造が設けられていたことだ。攻めてきた敵を右へ左へと直角に曲がらせることで討ち取る機会を増やす役目がある。(写真:I8)
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熊本城に典型的な連続外枡形がある。(写真:I9)
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家康は熊本城と姫路城の両方からよい形を取り、最強の城を造った。(写真:I10)
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(写真:I11)
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熊本城の一部。(写真:I12)
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白漆喰惣取り籠めの素晴らしい城だったという。富士山の白さにも並び称されたという。