「徳川一門 将軍家をささえたひとびと」

「J  REPORT 2022 2月第3週号」 
「リタイアメント・ノート 12年8ヶ月目」
「VOL.1251 SINCE AUG.12th、1983」
「徳川一門 将軍家をささえたひとびと」於:江戸東京博物館にて開催中(写真:B1)

「徳川家康」が1603年に江戸に開いた「徳川幕府」は、1867年15代の慶喜で終わりを告げた。そんな徳川一門を支えた人たちがいた。豊臣家と違って家康には多くの子供たちがいた。そんな子供たちが徳川家の基礎を築いたと言えよう。幕府を開いた家康は秀忠に将軍席を譲るが、駿府より睨みを聞かせ大御所として政治を司った。1615年には大坂の陣により豊臣家を滅ぼし長い平和への道筋を造った功績は大きくやがて神に列せられた。

「御三家」家康の子供3人を祖として徳川を苗字とした大名となる。九男義直は尾張名古屋を、十男頼宣は紀伊和歌山を、そして十一男頼房が常陸水戸に任ぜられ、将軍家継嗣がない場合に、将軍家を相続する権利を有していた。

「徳川吉宗」秀忠、家光の系譜が絶えた時、紀州藩主だった吉宗が八代将軍となった。家康の曾孫だったという血の近さもあったのだろうか。選んだのは時の老中たちだ。綱紀粛正を断行し、勘定所諸機構の改革、足高制の導入、倹約と年貢増徴による財政再建等を行い中興の祖と呼ばれた。

「御三卿」吉宗の血族を保つために徳川姓を名乗る別家を建てた。次男宗武を通称田安家に、四男宗尹(むねただ)を一橋家に、長男で九代将軍家重の次男重好を清水家とした。

「徳川家斉」十一代将軍、一橋家の出。田沼意次を罷免し、松平定信を老中首座にして改革を志すが失敗し定信も罷免。子沢山で有名。(写真:B3)
(写真:B4)

「松平慶永」田安家の生まれ。1838年天保9年に越前国福井藩十六代藩主となる。将軍継嗣問題や公武合体運動の推進といった幕政に深く関わった。明治期には慶喜を支持し徳川家存続に尽力した。

「徳川家茂」十四代将軍。紀伊徳川家当主斉順(家斉の七男)の次男。孝明天皇の異母妹である「和宮」を正室として、度重なる上洛や参与会議の開催など公武合体のために尽力した。しかし第二次長州征伐の総大将として大坂城滞在中に病で没した。

「天璋院」今泉島津家の長女として生まれ、島津藩主斉彬の養女となり名を篤姫と改め、十三代将軍徳川家定に嫁ぐ。わずか1年7か月の夫婦生活だったが、家定没後落飾して天璋院となる。戊辰戦争時には徳川家の家名存続と江戸城総攻撃の回避に貢献した。
「本小札濃勝糸威二枚胴具足」1843年天保14年(写真:B2)
「吉祥文彫木漆塗 重箱」
「黒塗牡丹綾 散松唐草蒔絵 雛道具」(写真:B5)
「白羅紗葵紋付陣羽織」慶喜所用(写真:B6)
②の具足(写真:B7)
⑧の雛道具(写真:B8)
貴重な資料がたくさんありましたが、いずれも撮影禁止なので一部しかご紹介出来ませんでした。現物は両国でご覧ください。