「東叡山 寛永寺」

『J REPORT 2020年2月第4週号』
「リタイアメント・ノート 11年8か月目」
「VOL.1148号 SINCE  AUG.12th, 1983」
「東叡山 寛永寺」(天台宗別格大本山)
12月に申し込んでおいた「寛永寺」の将軍家墓所見学の日がやってきた。先着順なので何とか滑り込んだという感じだ。JR上野駅から歩く。国立東京博物館の中にある大きく立派な門、因州池田家江戸上屋敷の表門だ。(写真:G1)
丸の内の大名小路にあったもので一時東宮御所の門として移築されていたが、現在は上野にある。最も格式の高い門の様式だ。素晴らしい。門の中に見事な白梅が見える。(写真:G2)
隣に「国際こども図書館」があった。(写真:G3)
明治5年に建てられたという建物だ。(写真:G4)
おや、「小泉八雲」の像があった。(写真:G5)
(写真:G6)
「寛永寺」に到着。(写真:G7)
境内に進む。正面は「根本中堂」だ。(写真:G8)
(写真:G9)
古い石灯篭だ。葵の紋がある。(写真:G10)
古い扁額があった。(写真:G11)
集まったのは約50名。まずは本堂で「般若心経」を皆で読経し、その後寺の由縁を和尚様から聞く。
この寛永寺という寺は、家康が天海僧正と意気投合し、東の比叡山として「東叡山 寛永寺」として建立したもので、三代将軍家光の時代、1625年に創建された。「寛永寺」という名は当時の年号を貰ったもの。延暦寺も同様朝廷の許可を得て、寺の名前としたもの。さてこの扁額は創建当時、「東山天皇」が書かれたもので、火災や戦災、地震を経ても唯一残った非常に貴重なものだという。寺のご本尊は根本中堂、所謂本堂に安置されているが、「薬師如来」だ。これは医者の仏様で、最澄が修行の守り神として、大乗仏教の僧侶を育てるためのものだという。
そして江戸城の北東、鬼門に当たる上野に江戸城を守り、五穀豊穣を祈るために建立したものだ。
家康を敬う家光は遺言で、自身の葬式を寛永寺で行い、一年後に日光に埋葬するようにとした。祖父の家康に
習ったものだ。その後、四代、五代綱吉、八代吉宗、十代、十一代の墓もここにある。一方、増上寺は浄土宗で、元々松平家は浄土宗の信徒だった。増上寺には二代秀忠、六代、七代、九代と埋葬されている。十五代慶喜は谷中に埋葬されている。
その後、各大名は徳川家との関係を考え、寛永寺の周辺に小さな寺院を建て寄進し、それらが36寺もあるという。徳川家の菩提寺に直接はと慮り、周辺に建てたという。また、延暦寺を真似て、京都や滋賀を模したもの、例えば琵琶湖は不忍池を模し中央に島を設けて弁天堂を、清水寺や大仏も設けられていた。
それでは慶喜はといえば。大政奉還した後、大坂城にいたが、鳥羽伏見の戦いで敗れると、軍艦で江戸に逃げ帰り、ここ寛永寺の小さな坊で謹慎していたという。その部屋を訪れる。移築されたもので300年位たっている部屋だ。
「葵の間」として保存されている。(写真:G23)
慶喜が着用したという陣羽織が、フランス、ナポレオン三世に献上されたが、その時フランス製の陣羽織が逆に慶喜に渡されたという。これがその陣羽織だ。布は毛織物で葵の御紋はフェルトとなっている。(写真:G24)
左の書は、慶喜のもので「花は生ず 池中の影 松は揺れる 風裡の声」とある。
多趣味だった慶喜の作品は、洋画、日本画、書、写真と残されている。(写真:G25)
(写真:G26)
(写真:G27)
いよいよ、将軍の墓所へ向かう。(写真:G12)
(写真:G13)
墓所入口の「勅額門」。(写真:G14)
(写真:G15)
(写真:G16)
(写真:G17)
墓所は写真撮影禁止なのでご勘弁を。吉宗以前の将軍の墓は青銅製だったが、質素倹約を旨とする吉宗は石製とした。太平洋戦争で増上寺は破壊されたので、戦後墓所を調査した結果、将軍の遺体は正式な衣冠束帯姿で、足の裏を完全に付ける形で座った状態で埋葬されていたという。寛永寺は爆撃で建物は焼けたが、墓自体は壊れていないので、未発掘の状態だという。
謹慎している慶喜を守るために一部の幕臣が上野に残っていた。慶喜は水戸に下ったが、一部残党(彰義隊約2000名)と薩長軍が上野戦争を起こすが、一日で幕府側は敗退。明治政府になり、寛永寺寺領は明治天皇に献上されたが、天皇から下賜され現在の「上野恩賜公園」となった。これはフランス人のボードウィン博士の提案によるものだという。その結果、寺領は従来の十分の一になり、今に至る。
話しを戻すが、五代綱吉の墓には「唐門」があり、豪華絢爛な彫り物があった。それらは極楽浄土を描いていたという。一方、吉宗は質素を旨とした石の宝塔で唐門もなかった。九代以降十四代までは全て吉宗と同じ形だ。十二代家定の墓の後ろには柿の木があるが、墓所に食べ物の木は珍しい。妻の篤姫の墓の後ろにも琵琶の木があった。
吉宗は幕府中興の祖と言われていて、大奥の大改革によるコスト削減、開墾による農地拡大、目安箱の設置、墨堤への桜等々色々な手を打って幕府財政の回復を図った。私の本籍は元紀州藩領内にあり、母方は福井藩の藩士であり、最後の藩主である松平春嶽は元々御三卿「田安家」から養子に行ったもので、吉宗の血筋だ。何かと縁がある。
墓所入口にあった白梅。(写真:G18)
帰り道、東京博物館内に入る。梅の花が素晴らしい。(写真:G19)
(写真:紅梅)
(写真:G20)
(写真:白梅)
黒田家の鬼瓦。(写真:G21)
池田家の門。(写真:G22)
古き江戸時代の香がするものだった。