「防災の日」

「さいたま歴史研究会―31」
「防災の日」
1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分、相模湾を震源とする大地震が東京・横浜を襲った。所謂「関東大震災」と呼ばれることになるものだ。東京都心から南西100km、相模湾の中央部、伊豆大島の北20kmの地点が震源だと思われているが、ここでM7.9、震度7が館山、鎌倉、小田原、震度6強が東京市内、横浜、震度6弱が山の手。津波は伊豆大島で12m、伊東で12m、房総半島南端で9m、三浦半島で6mと言われている。
建物の被害は横浜が圧倒的に多く、東京は南半分が殆ど消失した。(写真:消失地図)消失地図
黒い部分が焼失した部分で皇居の周囲から南と東側が焼け野原となった。それに対して新宿、渋谷等は殆ど焼けてない。被害は下町に集中した。
火災は東京市内では178か所から発生、48万戸の内、30万戸が焼失した。死者行方不明者は東京で約7万人、関東全域では10万5千人と見られる。その中でも最も被害の多かったのは、本所区横網町の旧陸軍被覆廠だろう。近くの住民およそ10万人がここに逃げ込み、やがて火が回り旋風が吹き荒れたという。今はここに慰霊塔が建てられている。
人々が逃げた場所は、上野公園に50万人、皇居前広場に30万人、浜離宮に10万人、靖国神社に5万人、清住庭園に2万人、小石川公園に8万人、日比谷公園に15万人などとなっている。
上野公園から上野駅を見下ろす。完全に焼き尽くされている。(写真:上野駅)上野駅
皇居前広場には沢山の荷物を持った人たちが30万人も集まった。(写真:皇居前広場)皇居前広場
日本橋から見た三越方面、二つビルが建っているが、奥のほうが三越だが、内部は全て消失している。(写真:日本橋)日本橋
当時は鉄道も道路も電線(電力、通信)、水道も崩壊して、箱根以西との連絡は全く不能になっていた。そこで朝日新聞社の記者3名が写真のネガを持って大阪に向かったのが、1日の夜9時、まずは車を雇って小田急沿線を進み、厚木まで、川が渡れず徒歩で渡り、再び車を雇い、小田原から北へ向かい御殿場経由で三島へ。ここから列車で大阪に向かい、4日の朝に大阪着で、その日のうちに号外を発行し東京の惨事を知らせたという。
小菅刑務所に収監されていた囚人は1500名いたが、数名脱走したほかは、塀も崩壊していたが、誰も逃げなかったという。理由の一つに食料の問題があったと言われている。外は焼け野原で食料は全くなかった。
その後の問題としては遺体の処理があった。通常の日当の10倍も支払って人を集めて焼却したという。
その時、台風が日本海を通過しており、そのため南からの強い風が吹いていたという。風速10mの風だったという。また火災が人命を奪った一因に、家財道具を持った人たちが逃げ惑ったため、消火活動が殆ど出来ず、逆にその家財に引火して延焼を増やしてしまったらしい。
いずれにしてもこの大震災を教訓にして都市再開発が行われ、明治通りや昭和通りが造られたのも事実だ。
さて、東京では過去、元禄大地震が1703年、安政大地震が1855年に起こっている。既に関東大震災から94年が経過している。いつ東京直下型大地震が起きても不思議でない時期になっている。防災の日を契機にもう一度地震に対する心構えと対策を行いたいものだ。備えあれば憂いなし。
以上、台風と共にまたまた暑さがぶり返してきた東京から勢古口がお送りしました。