「忠臣蔵の舞台を訪れる!」

「J  REPORT 2016 9月第3週」
「リタイアメント・ノート 8年4ヶ月目」
「VOL。968号 SINCE AUG.12th、1983」
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「忠臣蔵の舞台を訪れる!」
忠臣蔵と言えば思い出すのはやはり「討ち入り」だろう。「本所松坂町」の「吉良邸」の跡が両国にある。回向院に行ったのでその帰りによってみた。久し振りだ。小さなものだが、関係者がいつも気を使っているのだろう、常に綺麗に清掃されていた。(写真1:吉良邸入口)

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ここで起きた出来事等が書かれたものがあった。(写真2:吉良邸の由来書き)
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五代将軍「吉綱」の時代に起きた出来事だ。高家肝煎の「吉良上野介」への江戸城内「松之大廊下」で赤穂藩主「浅野長短」のよる刃傷沙汰だ。事件は元禄14年3月14日(1701年)に起きた。浅野氏は即日切腹。これから元禄15年12月14日未明の討ち入りが起きるまでは歌舞伎や浄瑠璃にもなったりした有名なお話しだ。しかし幾つかの疑惑がある。元々吉良家はお城に近い「呉服橋」にあった。それが川向こうの本所に移されたのは謎の一つだ。呉服橋には「南北両奉行所」(後に南町奉行所は数寄屋橋に移る)が当時はあったはずだから、奉行所の傍で討ち入りのような騒乱が起こることを避けたのかも知れない。さて正面に吉良氏の坐像があった。これは初めて観た。新しいものだろう。(写真3:吉良氏坐像)
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勿論当時の広大な上屋敷ではなく、その中の一部を使って吉良邸を再現しているものだ。傍らに社があった。(写真4:神社)
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小さな墓誌があった。そこには吉良家の家臣で討ち入り時に亡くなった方たちの名前が記されていた。(写真5:家臣墓誌)
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何と20名もの家臣が亡くなっているのだ。討ち入り側は準備周到で、羽織の内側には鎖帷子(くさりかたびら)まで着用し、扮装は「大名火消し」の姿というから完全武装だったのだから、当たり前とは言え、まるで皆殺し状態だったろう。吉良氏の首を洗ったといわれている「井戸」もある。(写真6:井戸)
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井戸のことは真実かどうかは分からない。板で出来たものにも事件の詳細が書かれていた。(写真7:事件簿)
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(写真8:邸内)
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日本人独特の感性でこの事件は当時の人たちに喝采を持って受け入れられた。その後各大名家へ預けられた四十七士は切腹となったが、武士の喧嘩は「両成敗」が当たり前の時代、片手落ちというご政道批判もあったことから、呉服橋から本所松坂町への吉良邸移動は、或いは幕府の赤穂浪士らに対する配慮だったのかも知れなかった。今でも事実は闇の中である。