「鹿児島市内」

「鹿児島市内」
三日目の月曜日。相変わらず風が強く気温も下がり気味だ。寒い位だ。
対岸の大隅半島から登る太陽が眩しい。(写真:C1)
鹿児島湾はほぼ東京湾と同じ大きさだという。
朝食も定番の和定食だ。(写真:C2)
昨晩宴会場で演説したのはこの宿の主人で実は前の指宿市長だったという。成る程演説も上手いものだったと納得。
まず訪れたのは屋久島の屋久杉を加工して販売している店だ。色々な加工品があるが、樹齢3500年と言うものもあるらしい。(写真:C5)
強い風で白波が経つ鹿児島湾に浮かぶ桜島。(写真:C4)
指宿と鹿児島を結ぶ線路が走っていた。勿論単線の非電化だ。(写真:C3)
市内に入り城山に向かう。途中に「薩摩義士の碑」があった。
ここで少し徳川幕府と薩摩藩の関係を述べよう。九州の雄である島津家は豊臣秀吉により征服され服従するようになった。秀吉の死後、関ヶ原では西軍に属し敗戦となる。その際戦場より死兵となり藩主を逃すために大変な損失を出した。これがまず一つ。次が幕藩体制時代に幕府より揖斐川三川の河川工事を命じられ、多大な負担を負わされ、また幕府役人の阿漕さに耐えきれず多数の藩士が腹を切った。これが二つ目。この二つのことが後々まで痕を引き戊辰戦争では徹底的に幕府を葬り去ろうとしたと言われている。そんな事件をこの碑は伝えているのだ。(写真はない)
城山より錦江湾と桜島を観る。(写真:C6)
狭い海岸縁に市街地が広がっている。(写真:C7)
ここで幕末の「薩英戦争」についても触れておこう。「生麦事件」をご存じだと思うが、帰国途中の薩摩藩の行列が生麦を通過中に英国人が騎馬で行列の前を通過したことから、激怒した藩士が英国人を切り殺したことに始まる。その結果鹿児島に英国の軍艦が攻め寄せて来た。この時市街地は英国軍の大砲により徹底的に破壊されたが、桜島の砲台からの弾丸が英国艦隊にも当たり艦長が死亡した。結果として引き分けとされているが、これを重要視した薩摩藩は英国の最新文明を取得すべく、18名の藩士を英国に留学させたのだった。ついでに言うと英国への賠償金は全て幕府が支払った。
次の写真は「西南の役」の際に西郷が最後に立て籠っていた横穴だという。(写真:C8)
戊辰戦争で勝利した官軍だったが、その後それまでの支配階級だった武士の制度は廃止され、平民となった。当時の武士階級は国民全体の8%程度だったと言われているので、仮に3千万人の日本人の8%、約200万人強(老若男女に一族郎党を含めて)が武士だったとすると、彼らにはこれまでの支配者階級というメリットがなくなり、不満が増していたのが当時の世相だった。その不満が各地で反乱を起こしたが、その最終版が西郷の「私学校」で、生徒たちが引き起こしたのが「西南の役」だった。立ち上がりは優勢だった私学校軍だったが、名将加藤清正が造った熊本城を抜けず、田原坂の戦いで敗戦し鹿児島へと撤退し、最後城山に籠った。歴史にIFはないが、西南の役がなければ、薩摩藩士の若者たちが明治政府でも重要な役割をなしただろうと思うと実に尊い命を犠牲にしたものだったと言えよう。軍服姿の西郷像。(写真:C12)
「小松帯刀像」(写真:C13)
金沢の加賀百万石の次に石高の多かった薩摩藩だったが、その内情は赤字続きだった。その財政を立て直したのが、家老の小松帯刀だった。琉球を間に立てて、清や東南アジアとの密貿易で儲けたというやり手の官僚だった。
繁華街の「天文館」を歩く。市電が走っている。(写真:C9)
地元の人に人気だというラーメン屋「くろいわ」だ。(写真:C10)
その店の前を観ると何と「一二三」の店があるではないか。(写真:C11)
しかも行列も出来ている。しまったと後悔したがもう遅い。有楽町にも2軒あるが、鹿児島では有名な蕎麦の出汁で食べる黒豚しゃぶしゃぶの店だ。店名は東京からの国道を意味する。国道一号線、二号線、三号線で鹿児島に到達するというのだ。コロナでしゃぶしゃぶ店しか東京には残らなかったが、ステーキハウスは大好きで何度も伺ったことを思い出す。あのステーキが懐かしい。
宮崎に向かう。途中に「龍門の滝」というのがあった。(写真:C14)
時間潰しに立ち寄る。
シェラトン・グランデ・オーシャンリゾート、45階建て。バブル絶頂期の1993年に建てられた第3セクター(宮崎市と県に地元企業)の案件だったが、10年後には経営難で今はヒルトン傘下になっている。ゴルフ場が二か所ある。スポーツ施設も沢山あり、色々なスポーツの合宿にも使われているという。丁度今週はダンロップ・フェニックス・トーナメントが開催されるという。(写真:C16)
クリスマスツリーが客を迎える。(写真:C17)
ロビーのど真ん中のカフェに水槽があり、魚が泳いでいた。(写真:C18)
部屋は流石に広く快適だった。さぞかし叩きに叩かれて買われたホテルなのだろう。バブルとは恐ろしいものだと今ならば思う。こんなことが中国でも起こりつつあるのが現実なのだろう。