「馬車と少年」

「馬車と少年」
ルーマニアでは沢山の馬車を見た。田舎の道路を人と荷物を載せて走っていた。写真はガソリンスタンドに立ち寄った親子連れの子供の一人だ。父親と弟がガソリンスタンドに寄り、恐らく灯油と思われるものを買っていた。やはり田舎の人たちは貧しいのだろう。小型トラックも買えないから馬車なのだろうと勝手に想像した。

映画「チャイルド44」(TCみゆき座にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★★(今年113作目)
原作は数年前に読んだが、面白かったが映画化も面白かった。1953年のソ連で起きた少年連続殺人事件に、秘密警察や密告者が絡んで複雑化したお話し。ソ連時代に生きた人々の苦労や生き様がよく描かれていた。

映画「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」(TC日劇にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★★(今年114作目)
人工知能を持ったロボットが逆に人類を滅ぼそうとする。それを防ぐのがアベンジャーズだ。まあ動きの激しいで目が疲れた。

映画「フレンチアルプスで起きたこと」(ヒューマントラストシネマ有楽町にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年115作目)
スウェーデンの親子4人が冬のフレンチアルプスでスキーを楽しむ。ところが昼食中の屋外レストランを雪崩が襲う。夫が逃げたと詰め寄る妻。その後彼らの関係は微妙な軋みを生む。そして吹雪のゲレンデに出て行くのだが、果たして何が起こるのか?

映画「アリのままでいたい」(ヒューマントラストシネマ有楽町にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年116作目)
アリの目線で見た昆虫等の世界を描いたもの。面白かった。

日経新聞7月10日夕刊の「シネマ万華鏡」の評価によれば、「チャイルド44」が4つ星、「ルック・オブ・サイレンス」が4つ星、「ターミネーター ジェネシス」が2つ星、「ボヴァリー夫人とパン屋」が3つ星、「踊るアイラブユ」が2つ星、「ゾンビーバー」が3つ星、「リアル鬼ごっこ」が2つ星でした。
日経新聞7月17日夕刊の「シネマ万華鏡」の評価によれば、「サイの季節」が4つ星、「バケモノの子」が3つ星、「チャップリンからの贈りもの」が3つ星、「インサイド・ヘッド」が3つ星、「犬どろぼう完全計画」が3つ星、「海のふた」が3つ星、「戦場ぬ止め」が4つ星でした。

「私の去年2015年の映画の評価は?」あくまで私の私感ですからね!!
今年の★★★★★は、「ドラフト・デイ」「アメリカン・スナイパー」「博士と彼女のセオリー」「中島みゆき」「セッション」「ビリギャル」「あん」
今年の★★★★は、「ゴーン・ガール」「トラッシュ」「スパイ・レジェンド」「アゲイン、28年目の甲子園」「おみおくりの作法」「ビッグ・アイズ」「KANO」「深夜食堂」「シェフ」「パリよ、永遠に」「ソロモンの偽証」「くちびるに歌を」「イミテーション・ゲーム」「バードマン」「ギリシャに消えた嘘」「龍三と七人の子分たち」「駆け込み女と駆け出し男」「靴職人と魔法のミシン」「海街ダイアリー」「マッドマックス、怒りのデスロード」「愛を積むひと」
「アリスのままで」「雪の轍」「悪党に粛清を」「チャイルド44」「アベンジャーズ」
「2015 旅の記憶シリーズ」
2015年の国内旅行は、1月に福岡(博多)、大分(中津)、佐賀(武雄温泉)、岐阜(白川郷、)、富山(五箇山、氷見、高岡)、新潟(越後湯沢)、3月は長野(長野)、千葉(銚子)、5月は福岡(博多)、熊本(熊本)、佐賀(武雄温泉)、6月は不老不死温泉(青森)、弘前城(青森)、釜石(岩手)を訪れました。

2015年の海外旅行は、2月のアメリカ(ハワイ)、3月のウズベキスタン(61カ国目)、4月のメキシコ(62カ国目)、5月は2度目のバルカン半島(アルメニア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニアヘルツゴビナ、スロベキア)、7月はブルガリア(63カ国目)ルーマニア(64カ国目)でした。

「2015年 歌舞伎観劇シリーズ」第1回目=2月大歌舞伎(歌舞伎座)、第2回目=4月大歌舞伎(歌舞伎座)

「2015 本の記憶シリーズ」
「お情け戸塚宿」(小杉 健治 著)幻冬舎文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年154冊目)「仇討ち東海道」シリーズ第1弾

「夕影」(辻堂 魁 著)祥伝社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年155冊目)「風の市兵衛」シリーズ第15弾

「鮫島の貌」(大沢 在昌 著)光文社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年156冊目)

「確証」(今野 敏 著)双葉文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年157冊目)

「酔狂の剣」(鳥羽 亮 著)ハルキ文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年158冊目)「八丁堀剣客同心」シリーズ第17弾

「黒羽」(誉田 哲也 著)光文社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年159冊目)

「ブルガリア、ルーマニアの旅、後記」

「J  REPORT 2015 7月第4週」
「リタイアメント・ノート 7年1ヶ月目」、
「VOL。908 SINCE AUG.12th、1983」
「旅暦61、東欧の旅」
「ブルガリア、ルーマニアの旅、後記」
「ドラキュラ」
ルーマニアでは何といっても「ドラキュラ」の姿があちこちで見られる。この写真もその一つ。モデルとなった人物の顔だ。彼はこの地域の支配者としてオスマントルコ軍と戦った。そしてトルコ軍捕虜に対するその残酷な処刑が人々に恐れられ、やがてドラキュラと言う小説に描かれるようになったという。作家はアイルランドの人だから、実際にはモデルに会ったこともなかったろう。アイルランドに伝えられた残酷さがあの小説を作らせたということだろう。
ところで前回の「907号」でルーマニアの首都ブカレストを謝ってベオグラードと誤記していたことを指摘されました。疲れた頭でタイプしていたために間違えました。すみませんでした。正しくは「ブカレスト」です。

「チャウシェスクの遺産」

「チャウシェスクの遺産」
7月13日(月曜日)
ブルガリアの首都「ブカレスト」は大きな都市だ。朝、散歩に出掛けたが、放射状に広がる街で道がよく分からなかった。路上生活者の姿も見えた。共産党時代の古いソ連が造った建物(今は新聞社)があったが、ポーランドにあったのと同じような偉容?を感じさせようという意図がありありと見える建物だった。1947年にそれまでのルーマニア王朝が共産主義革命で崩壊し、それが1989年のアンチ共産主義革命で民主化されたのだそうだが、ホテルのサービスも含めてまだまだ資本主義化されておらず、共産党支配下のような感じだった。愛想がないというのが彼ら彼女らの姿だと思うのは私だけだろうか?ブカレストの中心街は共産党支配下時代の建物が多く残り、兎に角民衆に如何に共産党が強いかを印象付けるような大きな建物ばかりだ。革命広場にある建物からチャウシェスク大統領が自由を求める群衆にバルコニーから演説するが、危険を察知しヘリで逃げたが、夫妻は約100km離れた場所で捕まりその場で処刑されたことは今でも覚えている。チャウシェスクの象徴的な建物が「国民の館」(写真)で、これは世界第二位の床面積を持つ建物だそうだ。一番は勿論ワシントンDCの国防総省「ペンタゴン」だ。富と権力を一手に獲得していたチャウシェスクが去ったとはいえ、やはり国民の本当の気持ちが西側化するにはまだまだ時間が掛かるのだろう。街の大きさからいえば、明らかにブルガリアよりも大きいが、何か富裕層と貧困層の差はルーマニアのほうが大きいと思えてならなかった。それも建物の大きさで民衆を圧倒しようとする意図が顕著なのがルーマニアではなかろうか?と私には感じたのだった。これはブルガリアでは感じなかったことだった。さて、いよいよ「最後の晩餐」を迎えた。旅も明日一日を残すだけとなった。明日夕方にはバルカン半島を離れる。そして15日夕方には成田に戻る。東欧の国を二つ廻ったが、やはりキリスト教の影響が強いのと、地元のオーソドックスと言われる正教が深く根付いていることを痛感させられた。敬虔なキリスト教徒なのだ。皆十字を切り、石版に接吻し、最大限の帰依を示している姿は素晴らしいものだった。教会の絵画は文字を読めなかった当時の人たちへの布教のために描かれたものだが、これが我々日本の仏教布教と違う所なのだろう。仏教も念仏を唱えることが信心の基本なのだろうが、キリスト教も形式的になっているという意味では同じなのだろう。
以上、ブルガリア、ルーマニアの旅の途中報告でした。

「ルーマニア正教会」

「ルーマニア正教会」
7月12日(日曜日)
ブラショフ市内の「聖ニコラエ教会」、「ブラン」という街の「ブラン城」、「シナイア」という街の市内観光をしてから、ブカレストに向かう。やはり印象的だったのが、日曜日とあって「聖ニコラス教会」や「シナイア僧院」でのミサだった。聖ニコラエ教会では荘厳な雰囲気の中、信者が集まり、聖書を読むというより歌うように唱える男性の声、それに信者たちは供物を持参し、入口で右手をまずは額に、次に真下に下ろし胃袋、更に右肩、左肩と十字を切る。カソリックとは順序が違う。これを連続して3回行い、前に進む。その内、金色の衣を着た年寄りの僧侶が焼けている炭が入っているような入れ物を持って信者の前を歩きながら、炭の粉をまき散らす。信者は僧侶の衣を触り、その恩恵を授かりたいとしているようだった。ここは写真撮影禁止なのでご覧にいれられないのが残念だ。ルーマニア正教会の日曜日ミサを観て体験できて非常に貴重な一時だった。また、シナイアの僧院ではミサの開始を告げるために、修道士が木の板を担いでそれを叩きながら歩く姿(写真)も印象的だった。更にブラン城はドラキュラのモデルになった伯爵が住んでいた城だ。多くの観光客が訪れていた。この国の観光の目玉の一つがドラキュラだから仕方がないのだが、ドラキュラ目当ての観光客が多いのにははっきり言ってびっくりさせられた。ドラキュラ様、様だ。ルーマニアの観光は「ドラキュラに始まりドラキュラで終わる」と言っても過言ではないだろう。トランシルヴァニア地方の山脈を越え、平原に戻ると周囲は「向日葵」「トウモロコシ」「小麦」「牧草」の畑が延々と続く土地が広がっていた。ルーマニアはワインが有名らしいが、ホテルで飲むワインは値段も高く、味もさほどではなく、ちょっとがっかりしたが、旅行中だから仕方がないなあ、と諦めています。ブルガリアに比べればユーゴスラビアは工場や大型ショッピングセンターも確かに多い。だが乞食やジプシーもいるというので治安が不安だ。

「ルーマニアはドラキュラの国」

「ルーマニアはドラキュラの国」
7月11日(土曜日)
午前中、「ビエルタン」という更に北の街で、この地方「トランスヴェニア」の要塞聖堂を観に行く。この地方は昔ドイツ人が移住してきた土地で最初はドイツ人のカソリック向けの教会が建てられたのだが、後に宗教改革でドイツ本国がプロテスタントになったため、この教会もプロテスタントの教会に模様替えしたという。また、1989年の革命後、多くのドイツ系の人たちはこの地を離れてドイツに戻ったので、そのあとに住み着いたルーマニア人はドイツ洋式の建物にそのまま住んでいて、街はドイツの中世の街の雰囲気を漂わせていた。物乞いもいたので、この辺はブルガリアとの差かも知れない。本日は結構強行軍だ。更に北に行き、「シギショアラ」の旧市街地を歩いた。中世がそのまま残る伝統的なヨーロッパの姿を色濃く示している街だ。その後出発点のブラショフに戻り「黒の教会」を観た。何のことはない。普通のゴシック様式の教会が火事で炎を浴び、煤で黒くなったため、それまでの「ヴァージン・マリア教会」が通称「黒の教会」と呼ばれるようになったとのこと。何か馬鹿らしい。旅ももう第4コーナーに掛かろうとしている。黒の教会で夕方コンサートがあるというので一部の人たちは教会に残ったが、私はホテルに戻り、これを書いている。そうそう話し忘れた。シギショアラという街はドラキュラ伯爵の伝説がある街で、伯爵が産まれたといわれている家があったり、「ドラキュラ」という名前のレストランで「ドラキュラの心臓」なる料理を食べたりもした。ご存知の方もおられようが、伯爵がトルコ軍に対して非常に残酷であったために、その話しが元になりアイルランドの作家が「吸血鬼ドラキュラ」を出版したのが世に広まったのだという。心臓料理のほうは、なんてことはない「赤いパプリカに挽肉を詰めたもの」(写真)だった。ブルガリアの気温が35度以上だったのに対し、ここブラショフでは23度と低く、朝などは肌寒かった。この寒暖の差はなんなのだろう?また土曜日ということで結婚式が多かった、歳は聞かないが、私が観た3組は30歳前後からその上だったと思う。晩婚化がここでも進んでいるみたいだった。

「ブルガリアは薔薇の国」

「ブルガリアは薔薇の国」
7月9日(木曜日)
前日は上海市場からの株価下落の影響で東京株式市場も全面安になったようで、持ち株の動きが心配になる。WIFIのほうはこちらのホテルではパソコンもスマホも無事に繋がり、メールも問題なく通じた。午前9時ホテル出発して、「カザンラク」という街にある「トラキア人の墓」に行く。紀元前3世紀頃のもので内部の壁画がこれもフレスコ画で描かれており、素晴らしいものだったが、勿論世界遺産だが、実は公開しているのは複製で実物は見学禁止だった。まあ「高松塚古墳」のようなものだと思えばいいだろう。知らなかったが、ブルガリアは「薔薇の生産」が世界的にも有名だとのこと。特にローズ・オイル、所謂「薔薇油」の生産では世界一でその4分の3がブルガリア製だというのだ。驚いた。薔薇の花を5月から6月にかけて収穫し、約3トンから3.5トンでたったの薔薇油1kgにしかならないという。勿論薔薇の花を蒸気で蒸して出た蒸気を冷却し、水と油に分ける。こういった工程を何度か繰り返すことにより純度の高い薔薇油が採れるという。この時合わせて薔薇の水も採れ、これを原料にしてお菓子やリキュール、ジャムなども作られるという。昔は薔薇油1gが金1gに匹敵したという。勿論香水の原料になるものだ。副産物としては化粧水や石鹸が生まれるらしい。さて次は薔薇製品の店(写真)だ。ここで皆さん沢山の薔薇から作られた土産品を買い求めていた。その後丘陵地帯をひたすら走る。大きな「向日葵」と「ラベンダー」の畑に出会った。一面の「向日葵とラベンダーのお花畑」は本当に美しかった。「タルノヴォ」という昔のブルガリア王国の首都へ行く途中で「エタル」という山間の村に「野外民族博物館」なるものがあり、そこを見学。電気のない時代の物の生産はどうやったのか?がテーマの博物館だった。要は川に沿った村では水力を利用して、水車を回して粉を挽いたり、ろくろを回して陶器や木工製品を作ったり、水力洗濯機でカーペットの洗濯をしていたということを見せていたのだ。タルノヴァには周囲3kmの城壁に囲まれた城があり、12?13世紀、ブルガリアの首都だったという。今は経済大学がある人口7万人ほどの中程度の都市だ。山間にそびえ立つ城は迫力満点だった。ホテルでネットに繋げようとしたが繋がらない。スマホだけロビーに持って行ったら繋がったから部屋では電波が弱過ぎるようだ。ネットが部屋で使えないというのは本当に困る。明日はどうなるのだろう?ネットが繋がるホテルだといいが。
7月10日(金曜日)
早朝、起き出してロビーに行き、スマホとパソコンをネットに繋ぐ。成功しました。メールを受信し返信し、その後歩いてお城まで出掛けた。片道約10分の下り坂、空気が澄み切っていて気持ちいい。気温は恐らく17?8度位ではないだろうか?歩くとちょっと汗ばむ。北上し「イワノヴォ」という街に向かい、岩窟教会なるものを観る。切り立った崖に中腹に穴を掘って作った教会でここにも内部の壁画が有名らしい。次は国境を越えてルーマニア位に入る。何とか首都のベオグラードに入ったが、ここから大渋滞が始まった。高速道路なし、抜け道なしで延々と続く渋滞に巻き込まれてしまった。ルーマニアは人口1900万人、国土の広さは日本の本州と同じくらいだというが、ベオグラードを抜ければ郊外は田園地帯ばかりだ。週末のために郊外に行く車の列には閉口する。ルーマニアとブルガリアのどちらが豊かなのだろうか?驚きは農村地帯で数多くの馬車を見掛けたことだ。それもちゃんと荷物を運んでいるのだ。これは車を買えない貧しい農民だからなのだろうか?牧場には羊や牛や馬が沢山いた。また石油が出るらしく、リグも動いているし、化学工場もあった。冬の暖房用の太いパイプが道路沿いに走り、庶民の家を暖かくするという。如何にも寒冷地らしいものだった。これも共産党時代のものらしい。この国は1989年の革命で共産党が滅び、チャウシェスク大統領夫妻が殺された事件はよく覚えている。バスでの移動中は渋滞だったが、逆に雨が降っていて視界を遮ったが、ホテル到着時には雨も止んでいた。しかし予定を大幅に遅れており、午後9時過ぎにホテル到着。すぐその足でレストランに入って食事となった。白ワイン50レイ、日本円で約1500円だったが、全く冷えていなかった。最初、白ワインのボトルを頼んだら、500レイだという、これだと1万5千円だ。全くおかしいので問い詰めると間違いで50レイということになった。さて、部屋ではネットは通じず、レストランでスマホが繋がっただけだった。ネット環境はよくない。結局パソコンのメールチェックは出来ずじまいだった。明日以降にベオグラードでやるしかないだろう。だが朝ロビーから接続出来ました。

「ブルガリア、ルーマニアの旅」

「J  REPORT 2015 7月第3週」
「リタイアメント・ノート 7年1ヶ月目」、
「VOL。907 SINCE AUG.12th、1983」
「旅暦61、東欧の旅」
「ブルガリア、ルーマニアの旅」
7月6日(月曜日)&7日(火曜日)
5月のクロアチア旅行と同じトルコ航空の便で成田を6日の22時出発しイスタンブールに向かう。まずはANAラウンジで腹ごしらえも前回同様。機内はアップグレードし、ビジネスクラスにした。といってもプラス4万円だから安いものだ。流石にフルフラットだと楽だ。殆ど食事をせずに約12時間のフライト中、6時間はぐっすり眠れた。7日早朝のイスタンブールのラウンジも慣れたもので赤ワイン(前回同様900と書いてあった赤ワインだ)を飲みサラダを食べ2時間を過ごす。そして目的地のブルガリアの首都「ソフィア」に着く。実に質素な粗末な小さな空港だ。日本の国内の小さい空港ほどしかない。ツアー客は合計21名、意外に男性も多く、また一人旅が圧倒的に多い。30人乗り位の小型バスでソフィアから南の「リラ」というところに向かう。ブルガリアというと我々日本人は何を思い浮かべるのだろうか?まずはヨーグルト、これが一番だろう。次は相撲の琴欧洲かな?まあ余り日本には馴染みの薄い国だろう。元々共産圏だった訳でロシアとは近しい間柄だったようだ。看板の文字もキリル文字とアルファベット文字が併記されていた。国土は日本の3分の1で人口700万人だといえば想像できるだろう。農業国でヨーロッパでも貧しい国の一つなのだろう。背が高い人が本当に多い。ひょろひょろとした人たちが歩いているのはある意味驚きだし、滑稽ささえ感じさせられる。でも若者が多い国でもある。一応EUには加盟しているが、通貨はユーロではなく現地通貨レフ(複数はレヴァ)といい、1レフは約70円だ。田舎のホテルの料金が一泊一人40レヴァ(2800円)、二人で50レヴァ(3500円)と安い。生ビール330MLが2レヴァ(140円)、北欧だと10倍以上の1500円だったことを考えるとやはりこの国は物価が安い。さて、ソフィアから車で約1時間、コウノトリが沢山いる街で小休止。いましたね。コウノトリが民家の屋根の上の煙突に巣を作って何羽もいた。白と黒のコントラストが美しい鳥だ。途中道路脇でサクランボを売っているおばさんに遭遇(写真)。採りたてのサクランボが1kg2レヴァ、約140円と安い。皆買い求めていた。また地元名産の自家製蜂蜜も売られていた。これは安いか高いか分からなかった。トルコもそうだったが、バルカン半島も蜂蜜で有名だそうだ。さてソフィアから南南西130kmの「リラ」の村には世界遺産の「僧院」がある。外壁にも内部にも美しい壁画が描かれていて、キリスト教の色々な場面が実に素晴らしい。やはりヨーロッパなのだと実感した。19世紀に一度火災で焼け落ちて後に、復元したらしい。標高1200mほどの山間の村で周囲は2900m級の山々に囲まれていて、湧き水が美味しかった。すぐ南が今話題沸騰のギリシャだ。このリラからだと一時間も掛からずにギリシャに入れるとのこと。走っている車は圧倒的にドイツのフォルクスワーゲンが多い。日本車もたまに見かけたが、やはりヨーロッパの車が多かった。だが道路は今一完璧ではない。高速道路も少ないし、一般道はデコボコ道で快適とは言い難かった。ソフィアに戻りホテルに入るが、このホテルはそれこそ完璧だ。部屋も広いし、空調も効いているし、眺めもいいし、なかなかのホテル(四つ星)だった。今回は中学の同級生のM君との二人旅。お互いに気兼ねなく旅を楽しみたいと思っている。ソフィアは周囲を山に囲まれた盆地のような地形だ。ブルガリア全体では南部には山地で3000m近い高さの山もあるが、北部は平原らしい。今日のドライブでも見えたのはうねうねとした丘陵地でたまに牛とか馬とか羊がいた。馬車も走っていた。昼は鱒料理、夜はチキンを食べた。赤ワイン、ボルトで29レヴァ、約2300円、ホテルだから仕方がないが、街で買えば半値以下だろう。スマホをWIFIに接続しメールを受信したら11通来ていた。返信するものは返信したのだが、その後メールの送信が出来なくなってしまった。何度やってもネットは繋がるのにメールが出来ない状態になった。先日買い求めた直後の状態と同じだ。困りました。仕方なくパソコンからメールをしている。
7月8日(水曜日)
ソフィアは人口170万人の大都会だが、我々の常識からすると高い建物が全くと言っていいほどない。それでも地下鉄もあるし、大都会なのだが、そう感じさせない雰囲気のある落ち着いた街だ。市内観光の目玉は中心部にある4つの宗教寺院だ。大統領府や旧共産党本部などの建物がある場所に、「ブルガリア正教(所謂オーソドックス)」「キリスト教カソリック」「イスラム教」「ユダヤ教」等の宗教寺院があるのだ。そして郊外にある世界遺産の「ボヤナ教会」では13世紀に描かれた「フレスコ画」を観たが、本当に素晴らしいものだった。小さな教会だが、10世紀から建てられ、内部の壁面全体にフレスコ画が描かれていて、それが永い年月を感じさせないほどの美しさと写実性に驚かされた。マリア様の表情の豊かさは正に内面を写し出しているような芸術品だった。午後からブルガリア第二の都市「プロヴディフ」に行く。ソフィアの東に位置している30数万人の都市だが、紀元前3000年には既に人が住んでいたという歴史ある街でローマ時代の遺跡も数多く残っていた。街のスーパーでビールを買った。地元のビールだったが、缶入り500cc2本で約170円だった。ホテルの夕食時に飲んだ白ワインもボトル1400円とリーズナブルだった。確かに物価は日本に比べれば格段に安い。勿論収入も少ないのだろうが。

「弘前城」

「弘前城」
日本には天守閣が残っている城が12あると言われている。その一つが弘前城だという。午後から弘前城を訪れボランティアガイドの方の案内で城を見て回った。まず結論から先に言おう。実は弘前城には「天守閣」はない。天守閣は出来上がって直ぐに落雷で火災が発生し焼け落ちている(1627)。今、櫓の一つが「天守」と呼ばれ、1811年当時のものが残っているが、これを誤って天守閣だと報じている本が数多くあるという。現地ガイドはこの櫓は天守閣ではなく三層の「天守」というものだと言っていた。天守は内堀の石垣近くにある。それは櫓の役割から当然だが、天守が傾き出したので、やむなく一時移動させ、石垣の大改修を行うという。1611年に建てられたこの城。たった4万石ちょっとの津軽藩なのに坪数15万坪(因みに江戸城の内濠内の広さは約30万坪)と言う巨大な城なのだ。これは徳川の姫を正室に貰った結果、東北の雄藩「仙台」「山形」「秋田」への後からの睨みが役割でこれだけ巨大な城を建てる許可を幕府が与えたというのだ。また桜の名所でもある。西濠の横に「桜のトンネル」と呼ばれる桜の名所がある。西濠の反対側にも桜があり、この西濠を挟んだ風景がアメリカはワシントンDCのポトマック河畔の桜に似ているという。いずれにしても2,600本余の桜は多数の種類が混在している。一番多いのは染井吉野だが、管理が美味く言っているので100年以上もの古い染井吉野がまだ多く残されているのも弘前城の特徴の一つだろう。小林さんと言う「樹木医」の技術によるところが多いとのことだった。今は緑が美しいが秋の紅葉、冬の雪景色も美しいとのことで四季の弘前城を楽しみたいと思うのだった。当日も桜の根本に肥料を追肥していた。
夕方青森に出て磯料理の店に行く。去年も食べたが、「ふじつぼ」が美味しかった。本日は青森泊まり。びっくりしたのは青森グランドホテルが廃業していたことだった。泊まったホテルでは朝食に「帆立の卵とじ」がバイキングの中にあり、その豪華さに驚かされた。本当に凄い朝食だった。焼き魚だけでも3種類もあり、ご飯に、蕎麦に、パン、味噌汁にせんべい汁。まああるはあるはの品揃えでした。これも客集め、リピーター確保には確かに効果があるだろう。さて早々に盛岡、新花巻経由で釜石に行く。お目当ては今度世界遺産に登録が予想されている日本で最初の製鉄用高炉があった「橋野鉄鉱山」だ。だが生憎の激しい雨。現地では野晒し吹き曝しになるというので今回は諦めて帰京した。昼食を食べた地元釜石の磯料理の店主の話しでは、3・11では皆直ぐに高台に逃げたので津波による人的被害は意外に少なかったという。その際には他人を助けるな、自分だけで逃げろが原則なのだとか。
さて、7月6日から東欧のブルガリア、ルーマニアへの旅に出掛ける。従って新しいHPの更新は16日以降になりますので悪しからず。
以上、勢古口が北東北の旅の報告でした。

「立ね武多」

「立ね武多」(たちねぷた)
五所川原の「ねぷた」の特徴の一つが「立ね武多」という高さ22mの巨大な「ねぷた」があるところだという。その為にメインストリートの電線を地中に入れたというから気の入れようが違うようだ。武者や動物たちが組み合わせれた姿は勇壮そのものだ。その大きさには圧倒させられた。弘前や五所川原では「ねぷた」といい、青森では「ねぶた」と濁る。夏の風物詩だが、東北の夏祭りの先陣を切って五所川原から始まる「立ね武多」。まだ観た事がないが、一度観たいものだ。写真は実物が展示されていた「ねぷたの館」のものだ。「ねぷた」は上のほうが大きくなっていて見上げれば見上げるほど空に伸び上がっているように感じられた。会館はこの巨大ねぷたを造り夏まで保存するために巨大は扉が付いていて、扉が開かれると、そのまま「ねぷた」が出陣することが可能なのだというから凄い。

「一所懸命」
今は「一生懸命」と言われがちだが、本来の意味は「一所懸命」だという。一生掛けて懸命にやるのではなく、一所、その時、その場で最善の努力を払うのが「一所懸命」だからだ。私も一日一日、一刻一刻、一所懸命に生きようと思う。

「斜陽館」

「斜陽館」
五所川原から津軽鉄道で「金木」に。この鉄道、社員が総出で色々な企画を立て面白いことをやるので有名だ。冬のストーブ列車ではスルメを焼いて食べさせてくれたりする。一両編成の列車だが、女性のキャビン・アテンダントが乗り込み、客サービスをしていた。彼女に色々と質問をしている内に「金木」に着いてしまった。ここは「太宰治」の生家がある場所だ。その産まれた家が今は五所川原市に寄贈されて「斜陽館」として公開されていた。太宰の父の津島氏は大地主であり、県知事や貴族院議員も経験した人物で、その農地は250町歩だったという。小作農家から毎年6000俵の米俵が運び込まれていたという。そんな裕福な家に産まれた太宰は作家として大成したのだったが、最後は自殺してしまった。生家を見学した後、津軽三味線会館で三味線の生演奏を聴き、次の目的地の弘五所川原に戻る。