「手前勝手世界食物語、第388号」
「横浜中華街」
学生時代のフットボール部の集まりがあり、久し振りに中華街を訪れた。年間2千5百万人以上の人を集めるここ横浜中華街は日本で最大、東アジア最大の中華街だ。(写真:善隣門)
最近の傾向は2000円以下での食べ放題のようだ。生憎の雨、残念ながら人出は少ない。(写真:メインストリート)
いつも行くのは「海員閣」。この店は今日は混んでおらず、列もなかった。土日は物凄く混む。行列は当たり前の人気店だ。しかし不思議なのだが、店のファサードは全く飾り気がなく、古い時計が並んでいるのだ。不可思議だ?料理は味もいいし、量が多い。本当は7-8人で丸テーブルを囲んで食べるのが一番いい。必ず食べてもらいたいのが「車海老の辛煮」(@時価=大体3000円前後)と「自家製シュウマイ」と「牛バラ煮込み」だ。その他お薦めはちょっと高いが「鮑のうま煮」だ。これも抜群の味だ。間違っても麺類を食べないこと。食べると料理がお腹に入らなくなるからだ。量が多いので注文し過ぎないことも頭に入れていて欲しい。(写真:海員閣)
海員閣は「香港路」にある。メインストリートを右に曲がる細い筋だ。小さな店が沢山ある。メインストリートには大きな店が立ち並ぶが、香港路には小さな店ばかりだ。父とよく行った「保昌」もこの筋にある。父も私も浜っ子だし、父は地元の「横浜商業」所謂「Y校」出身者だから、中華街のことはよく知っていて、最も頻繁に通ったのが「保昌」だった。(写真:香港路)
縁起担ぎの中国人がどこでも必ず祀ってあるのが「関帝廟」だ。三国志で有名な「関羽」を祀っている廟だ。「商売繁盛」の神様として敬われている。劉備に仕えたが敵味方から信頼され敬愛された武将だ。(写真:関帝廟)
今回は「大新園」という関帝廟通りの店での会食だった。
今、よく付き合っているのは、大学や高校、中学の仲間達、そして社会人になってからの付き合いの方たちだが、やはり昔の仲間が一番だ。何だか頻繁にそういった会合があるが、それがまた楽しい。以上、そろそろ冬になろうとしている東京から勢古口がお送りしました。
「南東北の旅、喜多方から」
「J REPORT 2015 11月第3週」
「リタイアメント・ノート 7年4ヶ月目」、
「VOL。924 SINCE AUG.12th、1983」
「南東北の旅」
「喜多方、会津若松」
例の3S会のメンバーにKさん(3S会の他の二人の大学同級生、元大手ゼネコン社員)を加えた4人組で「大人の休日倶楽部パス」を利用しての旅は、「南東北」だ。喜多方、会津若松、米沢、山形、天童、山寺、仙台、石巻を廻る4日間の旅だ。もう東北は紅葉の盛りは過ぎたものの、それでもまだまだ見事な紅葉を観ることが出来た。会津磐梯山の麓を廻り、若松で乗り換えて喜多方に到着したのは、もうお昼近く。勿論目的は「喜多方ラーメン」を食べることだ。天気は薄曇り、山々は柔らかな黄色と赤の紅葉、ちょっと肌寒い。駅から歩いて10分ほどの「源来軒」と言う店に行く。ご存知の通り「喜多方」はラーメンで売り出した町だ。「老麺会」という会を結成しているラーメン店が45店舗あるらしい。味はサッパリ系の醤油味、多分「鶏がら」スープが中心だろう。そして中太麺、支那竹、葱、チャーシューの地味な具材だ。並で650円と安い。まあまあの味だった。次に訪れたのは「大和川酒造」という醸造元の酒屋さん。目的は試飲だ。飯豊(いいで)山系の山からの良質な水があり、自らの田んぼで「山田錦」を栽培しているという。水と米、これが日本酒の決め手だ。なかなか美味しい酒でした。(写真左:紅葉、写真中:源来軒の喜多方ラーメン、写真右:大和川酒造
会津若松に戻る。タクシーで「鶴ヶ城」へ。そこで現地のボランティアガイドA氏と会い城を案内してもらう。堀の紅葉が実に綺麗だ。この城、幕末に官軍により攻められたが1ヶ月の籠城の末に降服したが、それまで官軍を一兵も城内に入れなかったという。5000人以上が籠城した城だったが、明治に入り、賊軍の城ということで破壊された。今は鉄筋コンクリートで再建されたという。それが明治の初めにフランス人がこの地にやってきてまだ昔の姿のままだった城を写真に撮っていたのが発見されたのでそれを元に復元されたらしい。(写真左:堀の紅葉、写真中:鶴ヶ城)
「会津松平家」について少しお話ししよう。徳川幕府の親藩として幕末には「京都守護職」にあった松平家は、「蛤門の変」では薩摩と組んで長州と戦ったが、坂本竜馬が主導した「薩長連合」が出来たことにより「朝敵」にされてしまった。「戊辰戦争」ではこの会津の地で官軍と戦った。当時は23万石だったようだ。城は会津盆地の南の端近くに位置する。官軍は城の東側の小田山の山頂から「アームストロング砲」を撃ち掛けたが、当時の砲弾は物を破壊するだけで爆発する訳でなく、従って城の東側の面のみ砲弾の跡が残ったが、城自体には全く問題がなかったという。だからフランス人の写真でその姿が確認出来たのだ。昭和40年に天主閣が復元されたと同時に「鉄門(くろがねもん)」も復元された。立派な門だ。城には「荒城の月」の碑がある。作詞家の「土井晩翠」はこの詩は鶴ヶ城を念頭に作ったという。そこで碑があるのだが、ここでは土井を「つちい」と読む。仙台が晩翠の故郷だが仙台では「どい」或いは「とい」と言う。どちらが正しいのか知らない。城の中に茶室「麟閣」がある。千利休が秀吉に切腹させられた時、息子の「少庵」を当時の会津を預かっていた「浦生氏郷」(がもううじたか)が会津に少庵を匿った。小庵の孫が「武者小路、表、裏」の三千家を起こし現在まで伝えられている。その小庵のために麟閣が建てられたという。城の中に風流な茶室があるのは大変珍しいという。(写真左:鉄門、写真中:荒城の月、写真右:麟閣)
次に訪れたのが「飯盛山」だ。ご存知「白虎隊」が自刃した場所だ。開戦前日、城を出発した少年達は敵が見つからず、野営した翌日城に戻ろうとして飯盛山にやってきた。山は城の東北にある。そこで城の周囲にあった武家屋敷が炎上していたのを眼にした。それを誤解して城が炎上していると勘違いした。また官軍に包囲されていて、ここで捕虜になれば殿様の顔に泥を塗ると判断し、20名の隊士は次々と切腹し、介錯して果てていった。最後に残った一人(斉藤氏)は刀で自らの首を切ったのだが死にきれず救出されたので結果19名の15-16歳の少年達が散ったのだった。賊軍ということで墓も造られず葬られなかったが、後になって墓が建てられた。一番手前の墓は「井深茂太郎」とあるが、ソニー創業者井深氏の遠い親戚に当たる人だ。飯盛山にはボランティアガイドのM氏が案内してくれた。長い階段を登るのだが私は膝が悪いので動く歩道に乗った。飯盛山の白虎隊自刃の場所に立つ。遠くに城が観える。写真ではNHKの白いアンテナの部分が城の天守閣の真ん中に観える。これだけ遠いと城が燃えたのか城下が燃えたのか分からなかったのだろう。M氏が詩吟を歌った。「南、鶴ヶ城・・・・、」となる歌だ。山を降りる途中に神社があり、白虎隊の冥福を祈った。当時を回想した絵もあった。もう暗くなってきたので、会津若松から今夜の宿の郡山に向った。(写真左:白虎隊の墓、写真中:飯盛山から鶴ヶ城を観る、写真右:白虎隊を祀る神社)
「米沢」
「米沢」
上杉氏の本拠地「米沢」。最も有名なのが十代藩主の「上杉鷹山公」だろう。中興の祖とも言われている。彼が有名になったのが、アメリカ大統領のジョン・F・ケネディーが日本人記者の「政治家で誰が一番尊敬出来るか?」と問いに対して「それは上杉鷹山だ」と答えたことが日本に伝えられ、急に注目されたというエピソードがあるらしい。なぜかといえば、鷹山公が家臣に残した和歌に「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」というのがあり、その姿勢にケネディーが感心したとされている。17歳で宮崎の高鍋藩から養子に来た鷹山は17歳で藩主になった。その当時藩は16万両(約160億円)の借金があったという。そこで鷹山はまず第一に質素倹約を、第二に殖産振興、新田造成を、第三に藩校設立して教育の充実を図ったという。質素倹約のために奥女中50数名を5名に減らし、自らは木綿の着物を着、食事は一汁一菜としたという。殖産振興のために桑を植え蚕を養い絹織物を造らせた。上杉家は藩祖の謙信公が新潟出身であるのでその縁で新潟の小父谷から織物の秘法を得たという。NHKの大河ドラマで有名になった直江兼続の「愛」が付けられた冑もある松崎神社や上杉神社も見学した。この日もボランティアガイド「おしょうしなガイド」のI氏の案内で廻った。「おしょうしな」とは米沢弁で「ありがとう」という意味らしい。上杉家が最初に会津若松に入った時は120万石だったが、関ヶ原の前に家康に逆らって西軍方に付いたために米沢に移され60万石に減らされた。更にその後30万石にまで減らされたという。鷹山公は35歳で後に生まれた義理の弟に藩主を譲るが、実質的には院政を行い69歳で亡くなるまでに借金は返済し更に5000両貯めたという。金を借りた商人に対しては元金や利子をまけさせることもかなりやったようだ。この上杉家は吉良上野介の息子が養子で藩主になっていた関係で忠臣蔵では吉良の護衛に出していた藩士20名を殺されている。だから落ち目の家柄だったといえよう。そんな藩を鷹山公が建て直したのは本当に大変だったのだろう。藩士も苦労したことだろう。(写真左:鷹山公、写真中:謙信公、写真右:上杉神社にて2S氏とK氏)
昼は「米沢ラーメン」を食べた。お城近くの「まつかわ」という店はガイドのI氏ご推薦の店で、出汁は「牛ガラ」を使っていて他の店とは違うという。麺もちぢれ麺でチャーシューに支那竹とワカメに刻み葱とシンプルだったが、これまた美味しかった。その後歩いて旧「米沢工業高校」、現「山形大学工学部」校舎を観に行った。古い木造の建物が印象的だった。更に「東光酒造」という店でこれも試飲をさせてもらった。(写真左:米沢ラーメン、写真中:米沢工業、写真右:東光酒造)
「2015 私の勝手な映画批評シリーズ」
映画「ターミナル 起終点駅」(TC日本橋にて)私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★★(今年183作目)
ターミナルは「釧路駅」。訳あって裁判官から田舎の官選弁護士に転じた男と覚せい剤所持で逮捕された女性を中心にして、ターミナルに逃げ込んだ人とターミナルから新しい人生を目指す人たちを描く秀作でした。こんな映画がいいなあ。
映画「ミオケランジェロ・プロジェクト」(丸の内ピカデリーにて)私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年184作目)
第2次大戦終了近く、アメリカとイギリスはナチスが奪った美術品の奪還に乗り出す。ヒトラーは自分が死んだら、全てを燃やせとの命令を出した。果たして奪還は出来るのだろうか?勿論出来ました。
日経新聞11月13日夕刊の「シネマ万華鏡」の評価によれば、「リトルプリンセス 星の王子さまと私」が4つ星、「ホワイト・ゴッド」が3つ星、「コードネーム UNCLE」が3つ星、「ムーン・ウォーカーズ」が3つ星、「パリ3区の遺産相続人」が3つ星、「ローマに消えた男」が3つ星、「ラスト・ナイツ」が2つ星でした。
「私の去年2015年の映画の評価は?」あくまで私の私感ですからね!!
今年の★★★★★は、「ドラフト・デイ」「アメリカン・スナイパー」「博士と彼女のセオリー」「中島みゆき」「セッション」「ビリギャル」「あん」「人生スイッチ」「筑波海軍航空隊」「天空の蜂」
今年の★★★★は、「ゴーン・ガール」「トラッシュ」「スパイ・レジェンド」「アゲイン、28年目の甲子園」「おみおくりの作法」「ビッグ・アイズ」「KANO」「深夜食堂」「シェフ」「パリよ、永遠に」「ソロモンの偽証」「くちびるに歌を」「イミテーション・ゲーム」「バードマン」「ギリシャに消えた嘘」「龍三と七人の子分たち」「駆け込み女と駆け出し男」「靴職人と魔法のミシン」「海街ダイアリー」「マッドマックス、怒りのデスロード」「愛を積むひと」「アリスのままで」「雪の轍」「悪党に粛清を」「チャイルド44」「アベンジャーズ」「バケモノの子」「ラブ&マーシー」「ジェラシック・ワールド」「ミッション・インパセブル」「アンフェア the end」「キングズマン」「テッド2」「ヴィンセントが教えてくれたこと」「Dearダニー、君へのうた」「カリフォルニア・ダウン」「ポプラの秋」「エール!」「ターミナル 起終点駅」
「2015 旅の記憶シリーズ」
2015年の国内旅行は、1月に福岡(博多)、大分(中津)、佐賀(武雄温泉)、岐阜(白川郷、)、富山(五箇山、氷見、高岡)、新潟(越後湯沢)、3月は長野(長野)、千葉(銚子)、5月は福岡(博多)、熊本(熊本)、佐賀(武雄温泉)、6月は青森(不老不死温泉、弘前城)、釜石(岩手)、10月は沖縄(ルネッサンスリゾート)、11月福岡(博多)、佐賀(武雄温泉、唐津)、大分(日田)、11月は福島(喜多方、会津若松)、山形(米沢、山形、天童、山寺)、宮城(仙台、石巻)を訪れました。
2015年の海外旅行は、2月のアメリカ(ハワイ)、3月のウズベキスタン(61カ国目)、4月のメキシコ(62カ国目)、5月は2度目のバルカン半島(アルメニア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニアヘルツゴビナ、スロベキア)、7月はブルガリア(63カ国目)ルーマニア(64カ国目)、8月はアメリカ西海岸(シアトル、LA)、9月はアメリカ南部(ヒューストン、ナチェス、メンフィス、ツゥペロ、ニューオーリンズ)でした。
「2015 歌舞伎観劇シリーズ」第1回目=2月大歌舞伎(歌舞伎座)、第2回目=4月大歌舞伎(歌舞伎座)
「2015 本の記憶シリーズ」
「料理番 春の絆」(小早川 涼 著)角川文庫 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年238冊目)「包丁人事件帖」シリーズ第5弾
「獣の涙」(早見 俊 著)光文社文庫 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年239冊目)「道具侍隠密帳」シリーズ第3弾
「図解!江戸時代」(歴史ミステリー倶楽部 著)三笠書房文庫 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★
「山形」
「山形」
午後4時ギリギリに山形城、即ち「霞城」(かじょう)と呼ばれる城内にある「山形県立博物館」に入館出来た。そこには国宝の「縄文の女神」と呼ばれる土偶があった。知らなかったが、国宝には「国宝指定書」というものが文科大臣から出され「右を国宝に指定する」ということになっていた。その後旧県庁舎だった「文翔館」の夜景を観てホテルに入った。既に外は真っ暗だ。タクシーの運転手の推薦の地元料理の店で名物の「芋煮鍋」を食べた。夜食は米沢で買い求めた駅弁「牛肉ど真ん中」を食べた。(写真左:国宝の土偶、写真中:旧県庁舎、写真右:芋煮鍋)
翌朝、ホテル近くに「山形城、三の丸」の土塁の跡があったが、山形城は1.8kmx1.4kmの大きさだったようで巨大な平城址が確認出来た。(写真:土塁跡)
「天童」
JR天童駅の中に「天童将棋資料館」がある。そこで本日のガイドのG氏と一緒にまずは将棋の駒の製造過程を見学した。ここも写真禁止だった。天童市内を歩く。道路は昔のままの形を残している。面白いのは市の施設にも将棋の駒が描かれていたことだ。写真は鋳鉄製の弁だ。驚くことに天童藩は「織田信長」の直系の子孫が藩主だったという。織田信長は本能寺の変で殺されるが長男も自刃してしまう。次男の信雄は助かり、その後織田宗家の当主となり、後に群馬県邑楽郡に領地を与えられる。その後ここ天童に移り「天童織田藩」となる。(写真左:天童の人間将棋の風景、写真中:天童市の仕切弁、写真右:御陣屋跡)
しかし戊辰戦争では官軍側に付いたことから幕府軍の鶴岡藩に攻撃され陣屋も含めて町は全て焼き尽くされたという。その際家臣が織田家の御位牌だけは持ち出せたので火災を逃れ今は菩提寺の「三寶寺」に安置されている。また織田家には日本に来た宣教師が描いた信長公の肖像画があり、その写真があったが、これが最も信長公に似ていると言われているらしい。三寶寺の寺紋は「五七の桐」でこれは天皇の副紋で足利氏に許され、足利氏から信長公に、更に織田家から三寶寺に使用許可された高貴な寺紋だという。(写真左:三寶寺、写真中:織田家御位牌、写真右:織田信長公肖像画)
天童は松尾芭蕉にも所縁の土地である。「奥の細道」で芭蕉はこの天童を通って山寺に向っている。場所の弟子たちが塚も建てた。(写真左:奥の細道、写真中:芭蕉の句、写真右:翁塚)
旧「東村山郡庁舎」が資料館として保存されている。さて、新幹線で山形市内に戻る。新幹線といっても実際には在来線の特急と同じだ。山形国体に合わせてフル規格の新幹線でなく在来線の線路幅を広軌にしてその上を走られている新幹線だからスピードは特急並みだ。昼は山形駅にある「三津屋」で「半板蕎麦」を食べる。どうも粉っぽい蕎麦で銀座の田中屋の蕎麦を食べ慣れている私には美味しくは感じなかった。(写真左:3S会とKさん、写真中:山形新幹線、写真右:三津屋の半板蕎麦)
「山寺」
午後からは山寺だ。だが私は膝が痛くて痛くてどうしようもないので「立石寺」への参拝は止めた。1100段の階段は登れても降りられないだろう。他の3名は地元のなんと89歳のガイドさんの案内で山を登ったという。山形と言えば「紅花」だ。紅花は銀の重さに匹敵したとも言われていた貴重な産物だった。今も化粧品に使われているという。約3時間後に3人と合流し仙台に向う。まずは腹ごしらえとして駅地下の本塩釜が本店の「すし哲」に行く。非常に混んでいたので30分で切り上げるという条件で入店し「すし哲物語」という握りの最上級品を頼む。流石美味しい。仙台に着た時には必ずこの店には本店か支店かは別にして寄せてもらっている。もうお孫さんが店長になっている時代だ。嬉しいことに大人の休日パスを見せると一貫寿司を追加してくれた。蛸の頭を茹でたものだった。(写真左:紅花、写真中:立石寺、写真右:すし哲の握り)
「仙台」
「仙台」
朝、国宝である「大崎八幡宮」に行く。行くまでここが国宝に指定されているとは知らなかった。正月15日に「どんと焼き」があることは知っていたが、まさか国宝だとは思ってもいなかった。慶長12年(1607年)に建てられたのだが、豊臣家に仕えていた大工たちを京都、大坂、和歌山から連れてきて造られたという。安土桃山時代の豪華絢爛な建物で伊達政宗の趣味もあり、素晴らしいものになっていた。実は後からこの神社の正面上部壁には象の彫り物もあるのだということが分かった。ここを造った大工たちは後日、日光東照宮の造営も行うことになる。あの左甚五郎の彫刻もあった。(写真左、大崎八幡宮石段、写真中と右:国宝の社)
「青葉城址」
市営地下鉄の東西線が来月開通するという。広瀬川の上をテスト走行しているのが見えた。東の仙台新港から仙台駅を通って、青葉山の下を通り、西の八木山まで走るという。時代は変わっていた。変化に驚くばかりだ。「青葉城資料展示館」に入り、当時を再現した3D化された映画を観る。大きな城だったが、戊辰戦争の賊軍ということで城は壊された。仙台市内を見渡す。昔から比べるとやはり大きなビルが増えていた。伊達政宗は外来品が好きで遣欧使節団をヨーロッパに派遣したりした開明的な武将だったようだ。(写真左:伊達家所蔵甲冑、写真中:仙台城模型、写真右:政宗騎馬像)
仙台は人口103万人の大都市だ。(写真:仙台市内パノラマ)
「瑞鳳殿」
伊達政宗の墓所が瑞鳳殿だ。国宝だったが、昭和20年の仙台空襲で全て焼け落ちたが、近年再建された。戦前絵画を学んでいた学生達が寸法を正確に測り、かつ色付きで描いていた資料があり復活出来たという。これも豪華絢爛那な極楽の世界を描いたものだ。瑞鳳殿の文字が刻まれた板も当時そのままに復刻されたという。赤の下地は「赤珊瑚」の粉で、白地は「真珠」の粉で描かれたという。社殿も素晴らしいものだった。その彫刻は驚きの美しさで政宗の遺体が眠る墓所の上に極楽にしていた。学術的に墓を調査し遺体を掘り出した結果、身長は159.5cmの細面だったということが分かったという。しかし政宗の肖像画も騎馬像も全て両目が開いている。理由は政宗の遺言で生んでくれた母親に申し訳ないから眼は両目開けて造るようにとのことだったらしい。
(写真左:瑞鳳殿銘板、写真中:瑞鳳殿、写真右:彫刻)
政宗は72歳で死んだが、徳川3代将軍家光に慕われていたという。死ぬ1ヶ月前にわざわざ江戸まで出向き、己の死後のこと、伊達家の安泰を家光に頼んだようだ。そして江戸の屋敷で亡くなったが、どうも胃か食道のガンだったようだ。墓所の瑞鳳殿には殉死した家来たちの墓もある。左の写真は大崎八幡宮の「左甚五郎の睨み猫」で一般に人は見ることが出来ない場所にあるという。日光東照宮の「眠り猫」と対になるものだろう。廟の内部は年に何回かしか開けられない。(写真左:大崎八幡宮にある甚五郎作の睨み猫、写真中:瑞鳳殿内部、写真右:瑞鳳殿2面)
「石巻」
「石巻」
昼は「利久の牛タン定食」を食べた。牛タンに麦飯、そしてテールスープ、美味しかった。タンは厚いが柔らかい。実に美味しい利久の牛タンでした。午後からは石巻在住のO氏の案内で被災地と復興の現場を巡る。松島海岸駅で待ち合わせ、海岸線を石巻まで北上することになった。O氏とは入社以来のお付き合いだから45年にも亘る。津波で全て流されたところに海岸線に沿って巨大な堤防を造っていた。盛り土してそこに植栽していたが、何かこれでいいのかと思ってしまう光景だった。簡保の宿が廃墟となって建っていた。このように使用されなくなりそのまま残されている建物を次々と観ることになる。海岸にはもう何もない状態だった。(写真左:利休の牛タン定食、写真中:堤防、写真中:廃墟)
JR野蒜(のびる)駅はもう現在は使われていない。線路は内陸部に移されたからだ。この駅の屋根を越える津波が襲ったという。駅の向こうに見える家も半数は空き家だ。新駅は100m以上離れた場所で数十メートル高い場所に移っていた。駅前は住宅地にすべく急ピッチで造成工事が進む。しかし果たして利用者はいるのだろうか?途中でも堤防の内側に住宅地を造る工事が見られたが果たして人が住み着く町が本当に出来上がるのだろうか?国の予算を使って兎に角造ればよいというような雰囲気を感じた。だいたい年寄りがここまで登って来ることが出来るのだろうか?今のところ新駅の利用者は一日5-60人程度だという。元の野蒜は大きな町だったが、今人は殆どいない。(写真左:野蒜駅、写真中:野蒜駅2、写真右:新しい野蒜駅にて)
石巻の「日和山」に登る。ここからの眺めは非常によいが、無人の家とただ開けた野原が観えるだけだった。人口密集地域だったが、寂しい風景しか見えなかった。嘗ては港町として栄えた場所だったが、多くの人が津波で命を失った石巻でも一番酷い被害が出たところだ。なんともやりきれない気分になった。天気がよいだけに余計に気持ちが塞いだ。石巻の中心街は空き家とシャッターが仕舞った店ばかりで復興しているのは金融機関だけのようだった。しかし5月に仙台まで線路が繋がり漸く市民生活も元に戻りつつあるようだ。石巻の人も基本的には仙台へ通勤通学する人が多い。仙石線も快速は途中から東北本線経由となり石巻から1時間で仙台駅に着いた。被災地ではまだまだ沢山の避難所が残されている。新しく復興住宅が建てられたが家賃を払えない人は避難所から移らないとも聞く。果たして何年経てば元の町に戻るのだろうか?そして人びとは戻ってくるのだろうか?(写真:日和山にて)
今回の旅では各地でボランティアガイドの方たちにお世話になったし、石巻のO氏にも多大なお世話になってしまった。でも楽しい4人旅だった。
以上、南東北の旅から帰った勢古口がお送りしました。
「日田と唐津へ」
「J REPORT 2015 11月第2週」
「リタイアメント・ノート 7年4ヶ月目」、
「VOL。923 SINCE AUG.12th、1983」
「日田と唐津へ」
五月の連休に訪れた福岡に久々にJALの便で飛んだ。何気なく観た機内誌に「日田特集」があった。明日行く予定の日田が詳細に報じられていた。偶然とは恐ろしい。取り合えず博多の市内観光に向う。オープントップの二階建てバスに乗り、市内を廻る。ちょっと寒過ぎるが致し方ない。そろそろ市内の木々も色付き始めていた。秋から冬へと衣更えだ。(写真左:観光バス)(写真中:紅葉)(写真右:佐賀バルーンフェスタ会場)
夜はいつも行く佐賀は武雄温泉の「鮨 まねき」に行く。列車の中から今行われている「佐賀バルーンフェスタ」の会場が見えたが、バルーンは夜なので仕舞われていた。朝になると沢山のバルーンが集まってきて飛ぶ姿は圧巻だ。色とりどりのバルーンが舞うのは感動的だ。
「鮨 まねき」
店に入って席に着いた途端に目に付いたのが、自家製の「カラスミ」だ。長崎沖で獲れた大型の「ボラ」を魚屋から仕入れて、焼酎を何度も何度も塗りながら乾し造るというが、手間、隙掛かる一品だ。(写真左:自家製カラスミ)まず付け出しで出たのが、「燻製された牡蠣」と「ナマコ」だ。燻製された味が染み込んだ牡蠣は美味しいし、ナマコはかりかりと歯応えがある。(写真中:付け出し)次が「白身魚、鯛の刺身」(写真右)。
「やり烏賊」(写真左)も甘くてなんともいえない美味しさだ。日本に生まれてよかったと思う瞬間だ。目を見張ったのは「巨大ニンニク」だ。地元で作られているらしいが、ニンニクと玉葱を掛け合わせて作ったものだという。(写真中と写真右)驚きの大きさだ。味はニンニクで大きさは玉葱だという。
「〆鯖」は玄界灘の鯖をまず砂糖に浸け、その後塩と酢で〆るというものでこれも手間が掛かっている。砂糖で幕を作ったほうが美味しいのだというが確かに抜群に美味しかった。(写真左) 鯖の骨付きも焼いてくれた。(写真中) 脂が乗っていて美味しい。次が手数が掛かっているが「蟹」だ。(写真右) 身を全て剥いてくれているので助かる。ちょっと甘めの酢で食べた。
「ウニ」は2種類出た。九州の「ウニ」は美味しくないので塩浸けしてあり、北海道の「ウニ」はそのまま食べるが味の違いは、生ウニはほんのり甘く、塩ウニは濃厚な味だった。(写真左) 次は「カラスミ」(写真中)、そして「海老の佃煮」(写真右)と続く。
次は何だったんだろう?忘れたが何かの「煮付け」だ。(写真左) そろそろお腹も膨れてきたので握ってもらうことにした。コハダがないので代用品で「いわし」を光物として出してくれた。(写真中) 「マテ貝の軍艦巻き」(写真右)
地元の「しゃこ」はちょっと小さ目だ。(写真左) そしてその「しゃこ」に二本しかない小さな鎌のような足の身を取り出して軍艦巻きにしたものは手数もさることながら、美味に唸らされた。(写真中)
握りを3つの最後は「穴子」で終えた。(写真左)(写真中)(写真右)
大根を大葉で巻いて食べた。(写真左) お吸い物(写真中) 先ほど食べた大根の実物だ。地元の大根だというが変わった形をしているし、色も面白い。(写真右)
充分満足した「鮨 まねき」でした。約3時間も食べて飲んでしまった。帰りの特急では殆ど寝ていた。
「もつ鍋の七山」
「もつ鍋の七山」
二日目の夜は福岡は赤坂にある「七山」に行く。もう15年以上通っている店で博多に来た時は必ず寄っている。(写真左) 焼肉もやっているので最初に「黒牛たん焼き」(写真中)を頼む。「牛テイル煮込み」(写真左)も美味しかった。大将とママさんとお手伝いの女性一人の小さな店だが、味は抜群だ。一年前に薬院から赤坂に移ってきたが、味が更に洗練された気がする。
最後は勿論「もつ鍋」だ。(写真左、右)新鮮な「牛もつ」が沢山入っている。野菜はキャベツとニラだけだが、今回はニンニクを減らしてくれている。本来はニンニクが嫌というほど入っているのだが、ニンニク少なめにしてあった。いつ食べてもここのもつ鍋は美味い。ネットで宅配もしてくれるので助かる。焼酎を飲んで本当に満腹しました。
「2015 私の勝手な映画批評シリーズ」
映画「エール!」(ヒューマントラストシネマ有楽町にて)私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★★(今年180作目)
フランスの片田舎、牧畜業を営む一家は娘一人を除いて全員耳が聞こえない。娘は高校の教師に見出されパリの音楽学校への進学を勧められる。しかし父母に弟を残して家を離れることが出来るのだろうか?障害者家族の生き方を描く秀作でした。
映画「PAN ネバーランド」(TC日劇にて)私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★(今年181作目)
まあこんなものだろう。余りお薦めできない。ピーターパンが誕生するお話しでした。子供騙しだね。
映画「エベレスト 3D」(TC日劇にて)私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年182作目)
1996年のエベレスト登山の悲劇を描く。日本人女性もこの登山で亡くなった事実に基づく映画だ。高所恐怖症の私には観たくない映画でした。寒過ぎ高過ぎ怖過ぎでした。
日経新聞11月6日夕刊の「シネマ万華鏡」の評価によれば、「恋人たち」が3つ星、「FOUJITA」が4つ星、「エベレスト 3D」が3つ星、「ミケランジェロ・プロジェクト」が3つ星、「サヨナラの代わりに」が3つ星、「明日へ」が4つ星、「劇場版MOZU」が3つ星でした。
「私の去年2015年の映画の評価は?」あくまで私の私感ですからね!!
今年の★★★★★は、「ドラフト・デイ」「アメリカン・スナイパー」「博士と彼女のセオリー」「中島みゆき」「セッション」「ビリギャル」「あん」「人生スイッチ」「筑波海軍航空隊」「天空の蜂」
今年の★★★★は、「ゴーン・ガール」「トラッシュ」「スパイ・レジェンド」「アゲイン、28年目の甲子園」「おみおくりの作法」「ビッグ・アイズ」「KANO」「深夜食堂」「シェフ」「パリよ、永遠に」「ソロモンの偽証」「くちびるに歌を」「イミテーション・ゲーム」「バードマン」「ギリシャに消えた嘘」「龍三と七人の子分たち」「駆け込み女と駆け出し男」「靴職人と魔法のミシン」「海街ダイアリー」「マッドマックス、怒りのデスロード」「愛を積むひと」「アリスのままで」「雪の轍」「悪党に粛清を」「チャイルド44」「アベンジャーズ」「バケモノの子」「ラブ&マーシー」「ジェラシック・ワールド」「ミッション・インパセブル」「アンフェア the end」「キングズマン」「テッド2」「ヴィンセントが教えてくれたこと」「Dearダニー、君へのうた」「カリフォルニア・ダウン」「ポプラの秋」「エール!」
「2015 旅の記憶シリーズ」
2015年の国内旅行は、1月に福岡(博多)、大分(中津)、佐賀(武雄温泉)、岐阜(白川郷、)、富山(五箇山、氷見、高岡)、新潟(越後湯沢)、3月は長野(長野)、千葉(銚子)、5月は福岡(博多)、熊本(熊本)、佐賀(武雄温泉)、6月は青森(不老不死温泉、弘前城)、釜石(岩手)、10月は沖縄(ルネッサンスリゾート)、11月福岡(博多)、佐賀(武雄温泉、唐津)、大分(日田)を訪れました。
2015年の海外旅行は、2月のアメリカ(ハワイ)、3月のウズベキスタン(61カ国目)、4月のメキシコ(62カ国目)、5月は2度目のバルカン半島(アルメニア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニアヘルツゴビナ、スロベキア)、7月はブルガリア(63カ国目)ルーマニア(64カ国目)、8月はアメリカ西海岸(シアトル、LA)、9月はアメリカ南部(ヒューストン、ナチェス、メンフィス、ツゥペロ、ニューオーリンズ)でした。
「2015 歌舞伎観劇シリーズ」第1回目=2月大歌舞伎(歌舞伎座)、第2回目=4月大歌舞伎(歌舞伎座)
「2015 本の記憶シリーズ」
「助太刀始末」(芝村 涼也 著)双葉文庫 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年233冊目)「御家人無頼蹴飛ばし左門」シリーズ第2弾
「スキン・コレクター」(ジェフリー・ディーヴァー 著)文芸春秋刊 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★★(今年234冊目)
「ボーン・コレクター」や「ウォッチ・メイカー」などでお馴染みの「リンカーン・ライム」が主人公の推理小説だが、木目細かな内容には唸らされる。彼の本は基本的に新刊本で買っているが、決して失望することはない。実に面白い最高の作品だ。ただ長いから中々読めないかな・私でも4-5時間は掛かった。
「殺人刀無常」(芝村 涼也 著)双葉文庫 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年235冊目)「御家人無頼蹴飛ばし左門」シリーズ第3弾
「関宿御用達」(千野 隆司 著)角川文庫 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年236冊目)「入り婿侍商い帖」シリーズ第2弾
「恵みの雨」(井川 香四郎 著)角川文庫 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年237冊目)「かもねぎ神主禊ぎ帳」シリーズ第2弾
「日田へ」
「日田へ」
昨晩の雨が止み阿蘇の外輪山の麓を走る列車からは低く垂れ込めた雲が見える。(写真中)
乗ったのは「特急ゆふ号」(写真左) 日田は大分県といっても熊本福岡にほぼ隣接している九州の臍のようなところだ。豊臣秀吉が九州征伐後にこの地を直轄地にして支配したというのは交通の要衝であり、九州全体を眺められ押さえられる土地柄だったこともあり、徳川幕府もここを「天領」とした。古き江戸の色合いが濃く残された土地だというが初めてのこともあり地元のガイドさんをお願いしてある。駅から待ち合わせ場所の資料館まで約20分ほど歩く。道路脇に日田弁というのか大分弁というのか手書きの交通標識があった。(写真右)
ガイドのGさんとジョインして町並みを案内してもらう。「日田市豆田町」は碁盤の目にように区切られており、道路が細いのに車がひっきりなしに通るから結構危ない。(写真左) 本日は入らなかったが「草野本家」という古い屋敷には200体ほどもある雛人形が有名らしい。(写真中) 日田で有名なのが杉で作った「日田下駄」だという。下駄を売る店も沢山あった。軽そうな下駄だ。(写真右)
江戸時代に地元で一番有名なのが「廣瀬家」。金融業を営む傍ら大分の「府中藩」の財政立て直しに奔走した当主が居たりする大金持ちだったそうだ。(写真左) 家の中は立派なのだが写真撮影禁止なので概観しか撮れなかった。更に周囲の人には華美に写らないように家の壁は土壁で質素倹約を旨としているような造りになっていた。近年の大金持ちは「岩尾薬哺」だという。(写真中) この岩尾さんの店は「日本丸(にほんがん)」という薬を作り、何でも効くという丸薬で明治の頃から日本兵必需品として兵隊さんは必ず携帯していたという万能薬だという。今は原材料がワシントン条約により入手出来なくなり製造はされていないが、これで明治大正昭和に掛けて膨大な財産を築いたという。(写真右)
木造三階の岩尾邸の天守閣から代官所のあったほうを見る。小高い山は城址で代官所は麓にあったという。(写真左) 「六地蔵」(写真中) 造り酒屋(写真右)を巡る。
江戸時代、民間の学寮として廣瀬家が建てた「かんぎ園」という塾には延べ5000人以上の若者たちが全国から集まり勉強をしていたという。今は勿論建物はないが廣瀬家の人の隠居所跡が残っていた。(写真左) B級グルメで「日田焼そば」が有名だというが、ガイドさんに聞いたら「チャンポン」が美味しいというので駅前の「寶屋本店」という店でチャンポンを頼む。まあこんなもんかな?(写真右)九州はチャンポン発祥の地だけあって各地でチャンポンの美味しい店がある。一度試してみるといい。
「唐津へ」
「唐津へ」
テレビで唐津で「おくんち」の祭りをやっているというのを知ったので最終日の半日を使って佐賀県の唐津市に行った。博多駅から地下鉄とJRを乗り継いで約1時間半で唐津に着く。天気はいいし、大変な人出だ。駅前から市役所に掛けての道に群集が集まっていて、目の前を山車が曳き回されていく。魚だったり鳥だったり冑だったりと色々ある。(写真左、中、右)
山車の上には人も乗り、狭い道を沢山の人たちが曳き、「えんや、えんや」と掛け声をかけて意外な速さで進む。(写真左、中、右)
迫力ある動きだ。(写真左、中、右)
唐津市の市民総出で祭りを楽しんでいるようだ。(写真左) 帰りの電車の中から「唐津城」を望む。(写真右)
江戸時代ここの領主だった「水野なにがし」が、譜代大名の最終ゴールである「老中」を目指すために、江戸から遠い九州ではなく、遠州は浜松に転封を願った。唐津は実際の石高よりも実り多いし海の恵みを多いのをわざわざ禄高を減らして浜松に移ったという。家来は反対したらしいが殿様の強い意志で浜松に移った。その後希望通り老中になれたというが、今で言う総理大臣を目指したようなものだ。家来の苦労よりも自らの立身出世を願ったことは競争社会では当たり前のことなのだろう。