「ダブリン」

「ダブリン」7日目
今日が観光最終日だ。午前中は市内観光、午後からはフリータイムだ。「フェニックス・パーク」というニューヨークのセントラルパークの倍もある公園に行く。ここにはアメリカ大使の公館とアイルランド大統領の公邸もある。ナポレオンとの戦いである「ワーテルロー」に勝利した「ウイリントン公」はプロテスタント系アイルランド人だという。知らなかった。勿論英国軍として戦っているのだから仕方がないのだが、本当はアイルランド人だそうだ。鹿も自然に放たれていた。「聖パトリック教会」は不思議なことにプロテスタントの教会だという。この国、ノーベル文学賞受賞者が多い。有名な作家では「イエーツ」「スイフト」「バーナード・ショウ」「オスカー・ワイルド」「サミュエル・ベケット」等々だ。まだいたと思うが思い出せない。「国立博物館」では国宝の「タラの首飾り」を始め、泥炭の中から見つかったミイラや黄金の装飾品等を、また「トリニティーカレッジ」では「ケルズの書」という貴重な福音書の一部を観た。宗教的なものなのでそれほど感激はしなかった。このカレッジは勿論アイルランド最古の大学だ。有名人を多数輩出している。フリータイムになったので、まずは「国立美術館」に行く。目的は「フェルメール」だ。2年前の6月のオランダではフェルメールの作品は一枚しか観られなかった。「牛乳を注ぐ女性」の絵だ。他の絵は海外に貸し出されていた。もう一枚は上野で、「真珠の首飾りの少女」を観た。今回は「メイドの横で、手紙を書く女性」とでも訳そうか、兎に角「光の魔術師」の作品らしく、窓から入り込む陽の光が実に美しい。感動感激のフェルメールだった。まさかアイルランドでフェルメールの絵が観られるとは夢にも思わなかった。3枚目のフェルメールだった。その後「アイリッシュ・シチュー」を食べ、「ダブリン城」を観て、市内中心を流れる「リフィー川クルーズ」をして午後を過ごした。夜は「アイリッシュ・ダンスと歌のショー」を堪能した。もうワールドカップの準決勝「アイルランドとオランダ戦」が気になって早くホテルに戻りたくて困った。漸く後半から観ることが出来た。今日は快晴で気温も20度近くあったと思う。観光客も多く、どこも混雑していた。それにしても疲れた。アイルランドの食事については後日またところを変えて書こうと思う。いずれにしても明日はまたまた30時間近く掛けてのフライトが待っている。

「クロンマイクノイズの修道院」

「クロンマクノイズの修道院」
6日目の午後はアイルランドの本島を西から東へ横断する途中、中央部のクロンマクノイズにある古い修道院を訪れた。この島のカソリック系の教会は石で造られているから、征服者侵入者が破壊しても形だけは残っている。偶然にもこの修道院跡の近くで日本人ツアーのバス2台にすれ違った。奇跡的な確率ではなかろうか? この修道院跡の近くの「B&B」、ベッド&朝食の料金は一軒では24.99ユーロ(大体3500円)と看板にあった。朝飯付きでそんなもんだろう。ガソリンはリッター当り大体15.5(217円)?15.9ユーロ(223円)と非常に高い。ディーゼルはこの1ユーロ安位だ。それとトマトジュースが全く売っていない。トマトも輸入だから仕方がないのだろうが、トマトジュースがないのには困った。馬も姿もかなり観たが、これは乗馬用のペットだという。馬肉を食う習慣はないそうだ。スポーツだが、競技によって違うようだが、今やっているワールドカップなどの国際試合では、南は共和国で予選に参加、北は「イングランド、ウェイルズ、スコットランド、アイルランド」と4か国で別々に参加。一方ラグビーの6ケ国対抗戦では、北南一緒のチーム「アイルランド」として参加するそうだ。因みに6か国は、「イングランド、ウェイルズ、スコットランド、アイルランド」「フランス」「イタリア」だ。アイルランドの人気スポーツは「サッカー」「ゲーリアン・フットボール」「ラグビー」のようだ。ゲーリック・フットボールは多分オーストラリアン・フットボールと同じで、ラグビーボールをキックしてゴールに入れるものだと思う。ボールを一度地面に落として、跳ね返ってくるのをキックするドロップキックか、ボールを落とす途中でキック(所謂パントをする)し、ボールを仲間に繋ぎ、最終的にはキックしたボールがH型をしたゴールの上を通過すれば得点となる男らしい危険で激しいスポーツだと思う。高速道路を一路ダブリンに走る。街中の看板の文字を見ているとやはり「O アポストロフィー」が名前の初めにくる名前が非常に多いのに気が付く。さていよいよ「首都ダブリン」だ。初めて空に虹が出ていた。明日のダブリン観光で今回の旅も終わる。意外に早く時が過ぎた。

「モハーの断崖」

「モハーの断崖」6日目
ゴールウェイから「バレン高原」に向かう。アイルランドのイメージは「貧しいヨーロッパの田舎」「妖精の国」「国の守護聖人は聖パトリック」「牧草地」「泥炭」「厳しい寒さ」等々が浮かぶが真実は何なのだろう?さて、地方の道路の交差点は所謂「ロータリー」方式になっている。円形の周回道路を時計回りで車は走る。右側からロータリーを廻ってきた車に優先権がある。ところがこの方式は道路が空いているということが絶対条件ではなかろうか?大都市の混雑する道路にこれを持ち込むと全く機能しなくなってしまうと思う。アイルランドのように空いている田舎ならば問題ないが、これを都会に持ち込むのは無理だと思った。昨日泊まったゴールウェイの湾の反対側にある「バレン高原」に向かう。ここは石灰岩で出来た丘だ。古代人が埋葬されていた「巨人のテーブル」という遺跡を観て、本日の目玉である「モハーの断崖」に行く。大西洋の荒波や強風によって削られた海岸線が約200mの切り立った崖を作っていた。屏風のように折り重なって崖があった。いつもならば強風が吹き荒れているというが、この日、風はあるものの問題ない風だった。多分ここがヨーロッパの一番西だと思う。ユーラシア大陸の西の端はポルトガルのロト岬だ。だからここがヨーロッパの最西端だろう。遂に来るところまで来た。昼食前にゴルフ場の脇を通ったが、沢山の人がコースに出ていた。ゴルフも勿論人気のあるスポーツの一つなのだろう。

「インシュモア島」

「インシュモア島」5日目
テレビで「ルーレット」の賭け事をやっていたが、賭け事好きはアイルランドも一緒のようだ。アイルランド共和国とイギリス領北アイルランドには国境がない。行き来は自由だ。違いは道路標識が北は「マイル」で、共和国は「メートル」だということだ。共和国の標識には上に「ゲール語」、下に英語が書かれている。ケルト人の使っていたゲール語の教育は必修であり、共和国の西側や南西部では今も日常的にゲール語が話されている。これらの地域を「ゲール・タクト」と呼ぶ。勿論英語も話すので皆バイリンガルだ。夏休みには共和国の各地からゲール語を学ぶための「サマースクール」に参加する若者たちが「ゲール・タクト」を訪れる。3週間コースで地元の人の家に泊まり、全ての会話をゲール語で行うという。ホームステイ先でもサマースクールでも友人同士でも全てゲール語だそうだ。英語を話すと即退学だとか。いわば国内短期留学のようなものだ。早朝、ホテル前の岩だらけの海岸を歩く。カタツムリがたくさんいた。真っ赤な紫陽花も見られた。さてゴールウェイから車で45分の港から船で沖合にある「イニシュモア島」に渡る。45分の船旅だ。船は満席だった。結構揺れた。ヨーロッパ中、或は北アメリカからの観光客が多い。アメリカのアイルランド系の人たちにとってアイルランドは先祖の土地を訪れるルーツを探る旅でもあるのだという。ここには北大西洋に面した90mの切り立った崖の上に数千年前に建てられた石積の砦がある。この島自体、岩だらけの不毛の地で邪魔な石を積み上げただけかと思ってしまうほどの石の島だ。島中が石積の塀で細かく仕切られていた。その仕切りの中で動物を放し飼いにし、農作物を育てる。風よけにもなる。アイルランドの大西洋側は昨日のジャイアント・コーズウェイと同様に風と波で出来た断崖絶壁が続く。その一つがこの島の「ドン・エンガス」という砦跡だ。皆、崖の上から覗き出して下を見ていたが、私は高所恐怖症だから恐ろしくて早々に立ち去った。よくあんな事をやるものだ。気が知れない。島には約6時間滞在した。観光客の一部はレンタサイクルで島を巡っていた。歩行者と自転車、危険は世界どこへ行っても同じだ。夕食はゴールウェイの街で自由に食事となったので、街で一番有名な「フィッシュ&チップス」の店に行き、私は「トラディショナル・フィッシュ&チップス」@13.5ユーロと、「生牡蠣」6個@10ユーロ、そして「ギネス生ビール」1リッター@9ユーロを頼んだが、料理もビールも美味しかった。勿論チップス、所謂フライド・ポテトは大半を残した。時間がなかったので味わって食べることが出来なかったのが残念だった。フィッシュ&チップスは2008年か9年?秋にイギリスの湖水地方で食べて以来だった。白身魚のフライだが、まあまあの味だった。それにしてもチップスの多さには呆れる。そうそう、カメラのチップをいじっていたら、突然今年2月に訪れた台湾旅行の写真が出て来た。旅行中カメラを落とした時にそれまで撮っていた写真がなくなってしまい、がっかりしていたのだが、復活した。チップのどこかに仕舞われていたのがチップを動かしたので復活したのだろう。早速関係者にメールで写真を送付した。今日は一日中晴れだった。こういう日もあるのだ。食事からの帰り、時刻は午後9時、まだ太陽は上空にある。ゴルフをやっている人たちがいたが、まるで日中と一緒で、まだまだハーフラウンドは出来そうだった。

「アイルランドの旅、後半」

「J  REPORT 2014 7月第2,3週」
「リタイアメント・ノート 6年1ヶ月目」、
「VOL。855 SINCE AUG.12th、1983」
「旅暦52、アイルランドの旅、後半」
気温17度のアイルランドから帰国した途端に34度の暑さには参った。如何にアイルランドが過ごし易かったかを感じた瞬間だった。台風一過の東京に馴染むのは辛い。アイルランドの住民と言うのは、中央ヨーロッパからのケルト族がやってきて、その後アングロ・フランク族、更にデンマークのバイキングがやってきて同化していったという。ローマはイギリスは支配したが、アイルランドには来なかったからローマ文化の影響は受けていないらしい。さて、旅の後半だ。
「スライゴーからゴールウェイ」4日目
アイルランド系の移民たちの子孫はアメリカ、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、イギリス本土、ヨーロッパ合わせて本国より圧倒的に多い約7?8000万人にも達しているという。有名人ではJ・F・ケネディー大統領、クリントン大統領、レーガン大統領、ジョン・フォード映画監督、映画俳優のジョン・ウェイン、グレース・ケリーらがアイルランド系だという。オバマ大統領も極々僅かだがアイリッシュの血が入っている。アイルランド島西部の「コング」という町に映画「クヮイエット・マン」(日本題「静かなる男」)というジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の映画があり、その撮影がここ「コング」で行われたという。話しはアメリカから帰国した男が地元アイルランドの女性と恋の落ち、恋敵のアイルランド男と体を張って競うが、最後は仲良くなるという映画だ。アイルランド気質をよく表した映画でアカデミー賞を総なめしたに作品(1952年)だ。この街の至る所にこの映画のロケの場所があり、今はそれを売り物にして観光客を集めている。写真はジョン・ウェインがヒロインのスカーレット・オハラを抱き上げているシーンの再現だ。スライゴーでは修道院跡やノーベル賞文学賞受賞の「イエーツ」の墓を訪れ、コングでは「アッシュフォード城」の庭を見学したが、アフリカの大金持ちが買って手直しをしたというが内部も外観も凄いものだった。今は5星ホテルになっているが、その価値ありの建物だった。本日の最終地「ゴールウェイ」に到着した。今日も一日中、雨、風、日光が交互に訪れていた。ゴールウェイは人口10万人、アイルランド四番目に大きな都市で総合大学が二つある中核都市だ。過去はヨーロッパとの貿易で稼いでいたという。アイルランドもギリシャ、スペイン、ポルトガルと並び、経済的財政的に苦境に陥っている。それにしては皆ゆとりがありそうな生活をしているように見える。貧しくてもその心まで失っている訳ではないのだ。

「血の日曜日」

「ロンドン・デリー」
旅も4日目に入る。ここでは「アイルランド」の歴史的問題点「北アイルランド紛争」について書かなければならない。約700年に亘るイギリスの支配の中で独立運動が起こり、1921年にアイルランド共和国が独立したが、プロテスタントの多い北アイルランドはイギリス領として残ることを希望する人が多かったのでイギリス領となった。そして北アイルランドでは少数派のカソリック住民(アイルランド共和国側)と多数派のプロテスタント系住民(イギリス側)との間の戦いが1968年から30年も続いた。カソリック系の過激派が「IRA(アイルランド共和軍)」だ。こうして一般市民をも巻き込んだテロ行為が横行したのが「北アイルランド紛争」だ。実際にはプロテスタント系の過激派のほうの攻撃が凄く犠牲はカソリック系に多く出たらしいが、過激派として有名なのがIRAだといえよう。「血の日曜日」と呼ばれる歴史的な事件は、カソリック系の一般市民や学生たち約2000名の「公民権運動」のデモの時、勿論武器等持っていない非武装の人々にイギリス軍落下傘部隊が突然発砲し14名が死亡した事件のことだ。それがここロンドン・デリーで起こった。1972年1月30日の日曜日だった。17歳の少年4人を含む13名が即死、1名は病院で死亡した。当初イギリス軍はデモ隊が攻撃してきたので自衛のために反撃したとしていたが、近年事実が調査されイギリス軍が一方的に攻撃したとして英国首相が正式に謝罪した。痛ましい民族間(UKのアングロサクソンとアイリッシュ)と宗教間(プロテスタントとカソリック)の争いだった。今も事実上、宗教の違いは住む場所にも及んでおり、二つの住民たちは明確に別な場所に住んでいる。

「ジャイアンツ・コーズウェイ」

「ジャイアントツ・コーズウェイからロンドン・デリー」
午後の観光の目玉が世界遺産「ジャイアンツ・コーズウェイ」だ。北大西洋に面した約100kmの海岸線がそれで「巨人の通り道」の名前の通り、スコットランドの巨人とアイルランドの巨人が戦ったという巨人伝説のある場所だ。奇岩、奇石、切り立った崖、砂浜等が数多くある風景が素晴らしい。アイルランドの天気は本当に困りものだ。一日の中に四季があるといっても過言ではないだろう。「小雨」「豪雨」「曇り」「晴れ」「突風」それらが次々と短時間の間に訪れると思ってもらいたい。冬は零度から5度程度、夏は20度を超えることは稀。メキシコ暖流の影響で寒くはないが、暑くもない。台風や地震等の自然災害が殆どない。降水量も日本の半分程度、水害も非常に少ない。考えてみると意外に住み易いところなのかもしれないと思った。さてジャイアンツ・コーズウェイで特に溶岩が海水により固まった「8角形」「6角形」「5角形」等々の形をした柱がびっしりと生えている場所は凄かった。海岸の床の部分がこれらの規則的な形をした石の柱で埋め尽くされているのだ。驚きだ。約1時間海岸線に沿って、登ったり下ったりしながら、コーズウエイ周辺を散策した。世界遺産だから観光客も非常に多かった。途中から雨が降り出し、雷の音もしてきたので慌てて建物に避難した。夕方には北アイルランド第二の都市「ロンドン・デリー」に入った。今回は食事のことは書かないことにした。美味しいものがあるはずないので記載は止めることにした。

「タイタニック」

「ベルファースト」
3日目だ。昨晩は本当に痛くて大変だった。漸く少し楽になったが、今でも思い出すと恐ろしくなる。さて、昨晩は午後11時位まで空が薄明るかった。今朝は4時半位で明るくなり、日の出は5時過ぎだった。一日が長いヨーロッパの夏だ。今日はベルファースト市内観光の後、ブッシュミルズへ行くという。その前にアイルランドは北海道より少し大きな島だという。元々英国はケルト人が住んでいたが、そこに北方民族の「アングロ人」と「サクソン人」がやってきて、原住民を征服した国だ。だがそこにローマ人が紀元前1世紀位にやってきて長くローマ帝国の一部となっていたという歴史がある。英語自体も今から約1500年前に漸く現在の英語の形式になったという。ローマは紀元3世紀までには撤退したが、その文化の影響は強く残った。一説によれば英語の40%はラテン語から来ているという。アイルランド全体では現在460ー470万人ほどの人口(内、共和国は約400万人)だそうだ。確か北海道が550万人ほどだったと思うので、かなり過疎の国だといえる。
「ベルファーストからブッシュミルズ」
早朝のベルファーストの街を歩く。市庁舎を中心とした人口28万の小都市だが、勿論北アイルランド最大の都市だ。約1時間歩き回ったが土曜日の早朝でもあり、人も車も殆どいなかった。空気が綺麗だ。さて8時から観光だ。この街、実は「タイタニック」の街になのだ。1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニック号が造られたのがこの街の造船所だったのだ。だから、街のあちこちにタイタニック関連の施設が設けられていた。市庁舎の庭にも沈没100周年時に死亡者の全指名を記した記念碑が作られてあった。我々はタイタニックが製造の第三ステージで使われた「ドライドック」にも行った。タイタニックはその一年前に造られた「オリンピック号」の姉妹船で、既にオリンピック号は大西洋を横断する豪華客船として実際に運航されていた。巨大な船体を入れることが出来るドライドック、日本語では「乾式ドック」だが、ここにタイタニック号を入れて最後の電気系統だとか、ペンキだとか仕上げを行ったという。最初見た目にはそんなに大きいとは思わなかったが、ドライドックの下に降りてみるとその大きさに圧倒される。46千トン余りの巨体が北大西洋に沈没してしまった悲劇は余りにも有名だ。市内には記念館も建てられ、ベルファーストはタイタニックを観光の目玉にしていた。現地ガイドに聞くとタイタニック製造時に第一ステージ、第二ステージでは17名の人が事故で死んだが、第三ステージでは死者ゼロだったそうだ。約90km北の「オールド・ブッシュミルズ」というところの「アイリッシュ・ウィスキー」の蒸留所に行き、試飲をする。スコッチ・ウィスキーとはちょっと違ったアイリッシュ・ウィスキーの12年物のモルトを飲んだが、舌が痺れた。製法もスコッチは蒸留を三回だが、アイリッシュは二回だそうだ。醸造には使用済のオークの樽を使うという。長いものだと25年も寝かせるという。年に大体2%づつ樽の中のウィスキーが蒸発して減る。これを「天使の分け前(エンジエル・シェア)」という。同名の映画を昨年観たがウィスキーはある意味生き物なのだ。12年物700mlのボトルが36ポンド、約6500円だった。買わなかった。話しはちょっと変わるが、アイルランド人に多い名前が最初に「O’」(オー・アポストロフィー)が付く名前だという。「オ・ニール」「オ・コーネル」「オ・ブライアン」等々だという。アメリカ人でこの「オー」が付く名前ならばほぼ間違いなくアイルランド系だそうだ。

「タラの丘」

「ダブリンからベルファースト」
ダブリンから少し北に行った「タラ」というところへ行く。アイルランドの心の故郷だというタラ。4000年前からの古墳等があり、アイルランドの王が即位式を行う場所だという。一見すると草原なのだが、古墳群があり、アイルランドの守護聖人である「聖パトリック」の像もある。映画「風と共に去りぬ」もアイルランド移民のスカーレット・オハラの物語であり、舞台は「タラの農場」になっている。このタラはアイルランドのタラのことだという。アイルランドは約700年に亘るイギリスの支配から独立運動が起きたが、その過程で独立派とイギリス派、そして宗教対立もあり、戦闘が激化し、漸く1998年に和解したという厳しい歴史があるという。詳しくは別途書こう。今は南のアイルランド共和国とイギリスに属する北アイルランドとがあるが、国境には何もなかった。兎に角「緑の国」がアイルランドだ。国旗にもユニフォームにも緑が使われているが国土全体が緑一色だった。さて、この国は牧畜の国と言ってもいいだろう。道路の両側は牧場だらけで、牛、ヒツジ、馬が完全放牧で飼育されていた。それと道路だが、フリーウェイで料金は支払わないのだが、日本のような自動車専用高速道路なのに他の道路との仕切りがなく、平面交差している。とはいってもT字路で外部からフリーウェイに入るのには慎重さが求められ、逆にフリーウェイから出る時は右折も可能だから日本人の目からすると高速道路で右折可は理解に苦しむというものだ。ベルファーストまで約2時間。結局成田を発ってから30時間で漸くベルファーストのホテルに着いた。本当に長い旅だった。夜中、両足がつり出した。まずは脛、次がふくらはぎ、そして太ももと次々につり出した。参った。痛いよう、痛いよう、泣きながら筋肉を伸ばす。これが30時間にも及ぶ苦行の旅の結果なのだろうか?

「アイルランドの旅、前半」

「J  REPORT 2014 7月第2,3週」
「リタイアメント・ノート 6年1ヶ月目」、
「VOL。854 SINCE AUG.12th、1983」
「旅暦52、アイルランドの旅、前半」
「成田からアブダビ、そしてダブリン」
エティハド航空で成田から約9200kmのUAEのアブダビに来た。約11時間の旅だった。成田のANAラウンジでは偶然にも元の会社の、且つ大学も同期のG君夫婦にお目にかかった。これからギリシャでのクルーズ旅行だという。彼らはビジネスクラス、私は残念ながら今回はエコノミーだ。それでもラウンジで美味しい白ワインを飲み、いい気分で飛行機に乗れた。機内ではワインの影響もあり、かなり眠った。さて日本時間翌日午前9時、アブダビ時間午前4時に到着したアブダビはまだ夜明け前、気温30度だった。行ったり来たりしながら漸く「アブダビ・ラウンジ」に到着、アルコールはないが、紅茶で軽食を食べ、今こうして書いている。エティハド航空はUAEの国営航空だそうだ。まだこれから8時間以上かけてアイルランドのダブリンまで行く。航空内移動のバスで隣に座ったおばさんに話し掛けて、次の行き先を聞いたら、パリだという。パリで子供の結婚式があるという。大人数なので直行便ではなく、南回りの安い乗継便で行くという。エミレーツもエティハドも中東の航空会社は世界的な航空網を張り巡らし、中東をハブ空港にしようとしている。ここアブダビでの滞在時間は、約4時間だ。アイルランド共和国は57か国目の訪問国になる。イギリス領の北アイルランドと合わせてアイルランド島をほぼ一周する旅だ。南北戦争当時、沢山のアイルランド人がアメリカに渡り、北軍として参戦したという。戦後は警察官になる人が多く、ニューヨークの警官は伝統的にアイルランド系多いと聞く。その他アイルランド民謡(ダニーボーイ等)が日本では知られているのだろう。この程度の知識しか持ち合わせていない。また、19世紀半ばに欧州を襲った飢饉(最大の飢饉はジャガイモ飢饉と呼ばれ1845年から1849年にかけて起こった)の時に、飢えとイギリスの圧政を逃れて多数のアイルランド人がアメリカに渡ったこともアメリカにアイルランド人の移民が多いことの理由なのだろう。この時アイルランドの人口は800万人だったが、100万人が餓死し、100万人が移民となったという。さて36度のアブダビを出て、約8時間、6100kmでアイルランド共和国の首都「ダブリン」に着く。気温17度。途中、イラク、トルコ、ブルガリア、ポーランド、ドイツ、オランダ、そしてイギリス上空を通過した。ここまで成田を出発して何と25時間だった。