第七日目(11月27日、水曜日)

午前3時半起床。早速星を観に出掛ける。満天の空には星と三日月が煌々と光っている。ありましたよ「南+字星」と「偽南+字星」が。「オリオン座」もよく観える。素晴らしい星空だ。早起きした甲斐がありました。昨日はクルーズでワインをかなり飲んだのに、食事の時に更にボトル一本飲んだので、ちょっと二日酔い気味だ。このホテル、冷蔵庫もバスタブも冷房もついていて立派なホテルだ。今も冷房がギンギンに効いている。昨日の気温は30度を超えていたらしいが、湿度がないから決して暑くはない。朝、ホテルの中を散歩すると、直ぐに子供をお腹の下に抱えた「ヒヒ」に出会う。つきまとうと母親が私を威嚇する。その他、鹿の一種の「インパラ」や「イノシシ」にも出会う。ヒヒは沢山いた。ボツワナに向かうが、途中で「キリン」と「シマウマ」に出会う。これも群れで暮らしていた。ジンバブエ出国、ボツワナ入国。ボツワナは一人当たりGDPがアフリカ第3位、年間約80万円強だという。南アフリカよりも若干上(南アは80万円)だそうだ。理由は英国より独立後、ダイヤモンドが発見され、その原石の輸出によって国家財政基盤が築かれたという。ダイヤ様様という訳だ。ボツワナの「チョベ国立公園」で4駆のトヨタ・ランドクルーザーに乗り換え、いよいよ動物たちとのご対面だ。いました、いました。早速「インパラ」「いぼイノシシ」がお出迎え。チョベ川沿いの草地に本当に多くの「アフリカ象」がいた。集団で水を飲んだり、草を食べたり、水辺で泥を掛けたり、或は水浴したりと思い思いの姿でリラックスしていた。聞くと4日前までは雨で象たちは60kmほど離れた山にいたが、雨が止んだのでここまで来たのだという。しかし一頭の象の死体があった。水まで後数メートルで力尽きて死んだという。まだ一日も経っていない死体だった。これも自然の摂理なのだ。死体は他の動物たちの餌になる訳だから。「カバ」も沢山いた。勿論水の中から顔を出していたり、陸で草を食んでいたりしていたが、これまた凄い数のカバだった。その他、「インパラ」「アンテロープ」「サバンナモンキー」、鳥では「エジプトガン」「アフリカカゲコウ」「ホロホロチョウ」「ウミワシ」等がいた。何しろ最初は象に驚いていたのだが、余りの数の多さに、最後には目もくれなくなったし、カバも多過ぎて飽きてしまった。今日一日で1000頭ほどの象を観たと思う。午後からはチョベ川の川下りとなったが、今度は同じ場所を川から見たのだが、象の大群は殆どいなくなっていた。丘のほうに行ってしまったらしい。象は妊娠期間22か月で120kgもの大きさの赤ちゃん象を生むが、シーズンが決まっている訳ではなく、年がら年中生むのだそうだ。象は一度に170?200Lの水を身体に蓄えることが出来るので、かなりの日数水なしでも生きられるという。だから60kmを3日間掛けて水場にやって来られるのだ。川の中州に体長3mほどの大型の「ワニ」がいて、我々の船が近くに寄り、皆で騒いでいたら、突然動き出し川にどぶーんと飛び込み潜って行ってしまった。昼寝の邪魔をしたらしい。さて、話しは変わるが、自動車だが、ジンバブエもボツワナも日本車が圧倒的だ。特にトヨタ車が完全に制覇していた。南アには工場があり、エンジン等の主要部品は日本?から持って来ているらしいが、大半は現地調達で組み立てているらしい。だから隣国のボツワナにもジンバブエにも南アから輸出されているのだろう。ボツワナの面積は日本の1.5倍だが、人口や約200万人というから少ない。さて本日は動物たちを自然の中で見ることが出来て本当に有意義な一日だった。地元のガイドが言っていたが、この地方で人を殺す動物のランクは、1位カバ、2位バッファロー(アメリカのバッファローと違い、角と角の間も固い骨で覆われていた)、3位象だそうだ。カバが一番の理由は川での魚釣りの時の事故らしい。

「旅暦47、南アフリカの旅、後半」

第六日目(11月26日、火曜日)
早朝5時、朝焼けが綺麗だ。ヴィクトリア・フォールズへと移動する。ツアー客の中に数名の方が私と同じで「世界三大瀑布」の征服を目指している。いよいよ目的達成へと向かう。下を見るが、広大な褐色と薄い緑の低い灌木があるだけ。これがジンバブエの大地だ。高原に空の雲が影を落とす。何もない。ただ広がっている大地。昨年11月のポルトガルが50か国目、今年3月のペルーが51か国目、今回の南アフリカが52か国目、本日到着した「ジンバブエ」が53か国目だ。今回は更に「ボツワナ」(54か国目)「ザンビア」を廻るから、最終的には世界の55か国を巡ったことになる。ジンバブエは面積とほぼ日本と同じ、人口は1300万人、経済は崩壊して自国通貨はなし。米ドルか南アのランドが通用するアフリカでも最貧国の一つなのだろう。まさに「これがアフリカだ」という国だ。南アとは全く違う。さて、インターネットに繋がったが、ホテルでは電圧も安定しないし、アイドルタイムが長過ぎてメールの送受信が出来ない。本当に困ったものだ。どうすればいいのだろう?仕方なく、フロントでアダプターを借りて来た。それでもインターネットには繋がりにくいしメールは全く駄目だ。いよいよアフリカで4番目に長い川「ザンベジ川」のサンセットクルーズだ。筏を大きくしたような船に乗り、2時間のクルーズだ。飲み放題というのがいい。川の中州に「ワニ」がいた。「インパラ」(鹿の一種)もいた。川の中には「カバ」たちがいた。我々の目を楽しませてくれる動物たちがいた。自然豊かな土地だ。船に乗る前に現地人たちがリズムよく踊る。勿論お金を稼ぐためだ。私も10ランド(約120円)払った。午後6時半、いよいよアフリカの大地に太陽が沈む。あっという間だった。ホテルに戻ると周囲はカエルの大合唱が待ち受けていた。虫が飛び回っている。

「手前勝手世界食物語、第319」

第二日目
夜はビジネスクラスでの食事だったが、殆ど食べなかった。というか日本時間でいえば午前2時過ぎの食事だから食べられる訳がない。朝もいろいろ出てきたが果物を少々食べた。南アフリカ国内便ではサンドイッチが出た。野菜サンドをもらった。夜はホテルでの食事でバイキングスタイル。野菜類は生も温野菜も沢山あり、ムール貝、ローストビーフはそれなりに美味しかった。

第三日目
朝はホテルのバイキング、昼食もワイナリーのレストランでのバイキングだった。変わり映えのしない食事だ。夜は中華料理だったが、なんと「老酒」がなく、仕方なく「白酒」を飲む羽目になってしまった。料理も美味くなかった。白酒は56度の強烈な酒だ。テーブルの男性陣4名にも振る舞って飲んだが、結果余ってしまった。料理の中で「ダチョウの肉と野菜炒め」がでたが、初めてダチョウを食べた。特に何にも感じなかった。「白身魚のフライ甘酢餡かけ」が出たので魚をさばき、皆さんに提供したら驚かれた。別にいつもやっていることだ。身を骨からはがし食べやすくするだけだから。ショッピングセンター内のスーパーの入口に「寿司」の詰め合わせが売っていた。ここ南アフリカでも寿司ブームのようだ。殆どがサーモンだったが。SC内には「ROYAL SUSHI BAR」という店もあり、日本人らしい板前が握りを作っていて、お客も入っていた。

第四日目
朝はいつも通り、昼は「ロブスター」、夜は「ステーキ」だった。感動など全くない。ステーキはまたもそースがかかっていた。熟成した肉を塩と胡椒で食べたかった。

第五日目
朝はお弁当、昼はホテルのバイキング、サラダと鳥の煮込みだった。夜はヨハネスでの和食、「豚カツ御膳」だった。豚カツに野菜の煮つけ、漬物等なかなか本格的な和食でした。味噌汁はちょっと味が濃過ぎた。毎朝、日本から持って行った「味噌汁」を2杯飲んでいる。前回のフランス旅行の時から持参するようにしたのだが、コーヒーを飲むよりは味噌汁のほうが胃が安定するように感じる。やはり日本人なのだろう。
以上、南アフリカから勢古口がお送りしました。

第五日目(11月25日、月曜日)

南緯33度のケープタウンから南緯23度のヨハネスブルグに移動する。同地は1882年に金が見つかったことから発展した街だとか。金鉱の残骸ともいうべき「ぼた山」があちこちにある。それでもアフリカ最大のGDPはこの南アフリカであり、一人当たりGDPも小国のインド洋の国やダイヤ生産国についで第4位だというから凄い。走っている車も新車のような綺麗な車ばかり。車社会のこの国には車は必需品なのだろう。これまで見て来たエジプトやチュニジアとは根本的に違う。アフリカにあってアフリカでない国が南アフリカなのだろう。車はヨーロッパ、特にドイツ車が多いが、それに伍してトヨタ、ホンダ、日産も多かった。たまに韓国車もあったが、圧倒的に日本車のシェアーが高いと思った。朝のケープタウンは霧に包まれていた。昨日までの晴天はどこにいったのだろう?テーブルマウンテンは影も形も見えない。さて気温25度のヨハネスブルグは南アの経済の中心都市だ。ところが今の問題はダウンタウンから、企業や白人たちは治安悪化を理由に郊外へと移転しているという。だから、ダウンタウンはゴースト化しているようだ。確かに郊外の住宅建設は凄いものがあった。ヨハネスブルグだが、緯度はほぼ沖縄と同じ亜熱帯だが、高度が1500mと高原地帯だから、涼しい。大体南アフリカの平均高度は1200mだというから高原が当たり前の国なのだろう。人種隔離政策時代にマンデラ氏が住んでいた「そ・ウェト地区」に行く。これは「SOUTH WEST TOWN」の略で「SO WE TO」というらしい。マンデラ氏の逮捕前の家、1972年に教育が英語でなくなることに反対した少年たちのデモ隊に白人警察官が無差別に発砲した事件の場所を訪れた。当時、警察官には白人だけでなく黒人もいたが、仲間からは裏切り者扱いされていたらしい。過酷な運命だったのだろう。マンデラ氏は通信教育で大学卒業資格を取り、弁護士となったが、弁が立つので差別撤廃運動の指導者に祭り上げられ、結果として投獄されてしまったとのこと。ノーベル平和賞を獲得した人物だ。その後、人類の遠い起源とされる「原人」の骨が発掘された鍾乳洞にも行った。数万年前の人らしいが、どうも穴に落ちてしまい、鍾乳洞の中で石灰石に覆われたらしい。最後は「ライオン・パーク」に行き、幼い4?5か月の子供ライオンと写真撮影をした。本来はライオンに触れてということだったが、神経過敏なライオンたちなので、触らず近寄るだけにした。その他、放し飼いのキリン、ジャッカル、ヒョウらの猛獣や、愛らしい動物も沢山いた。今の季節、ヨハネスブルグは雨期で「スコール」が襲う。突然の雷と雨が我々を驚かせた。現在の南アの黒人たちは、2000年ほど前までは赤道付近に住んでいたが、人口増加により、南下し、それまで住んでいた原住民を吸収同化して現在に至っているらしい。ホテルに入ったが、本日も外出禁止とされた。治安が良くないらしい。目覚めたら、まだ朝の2時だった。まあ東京にいる時もほぼ同じ時刻には目を覚まして、ラジオを聴きながら本を読んでいるので、その通りの日常性に戻ったということだろう。時差は解消されたらしい。

第四日目(11月24日、日曜日)

ケープタウン最後の日だ。早朝の「植物園」を訪れた。色々な花々が咲き乱れていた。中でも感動したのが南アフリカの国花である「キング・プロテア」だった。直径10cm強の向日葵のような花で薄いピンク色をした豪華な花だった。その他動物たち鳥たちがいた。子供のフクロウの兄弟がネズミを食べていた。エジプトガン、ホロホロ鳥の親子、リスと余り見慣れない動物たちもいた。それから「アザラシ」の住む「シールアイランド」へ船で行く。数千頭のアザラシたちが島に上陸して寝ていた。海で泳ぐもの、陸で寝ているもの、本当に凄い風景だった。午後からは「アフリカ・ペンギン」の住む浜に行った。ここも数百羽のちょっと小型のペンギンが日向ぼっこしていた。これも驚きだった。そして締めはアフリカ最南西端の「ケープポイント岬」と「喜望峰」に行った。大西洋とインド洋を結ぶ重要な航路上の半島の先端だ。「バスコ・ダ・ガマ」が「インド航路」を発見したとしても知られている。途え中で「チャックマン・ヒヒ」というサルよりはちょっと大型の動物の家族連れが道路に出てきていて道行く車が止まってヒヒたちを見ていた。その他、シマウマ、鹿も見ることが出来た。ケープポイントでは名物のケーブルカーが故障していたので歩いて灯台まで登ったが、15分弱だった。南が南極、右手が大西洋、左手がインド洋、大海原が広がっていた。喜望峰では観光客が先を争って「看板」のところでの写真撮影で大混乱。写真を撮っても撮らなくても別にどうでもいいので風景のみ撮影して早々にバスに戻った。その後「喜望峰到達証明書」をもらった。快晴の日が二日続き、紫外線が強くすっかり日焼けしてしまった。二の腕から先、首筋首回り、顔と真っ赤になった。さて日曜日とあって地元の人たちが家族連れで繰り出していた。海岸では海水浴する人たちが集い、芝の上では皆でピクニックをしていた。家族団欒のひと時を楽しんでいるようだった。ここにはもはや人種差別の影はなかった。さてやはり驚いたのは郊外にある一戸建て住宅群だが、電線に電気が通ったフェンスで囲まれセキュリティが非常に厳しい環境で暮らしていた。一つの団地はフェンスで外部と遮断され、入口にはガードマンがいてチェックしていたが、それほどまでに治安が悪いということなのだろう。外部からの侵入者を完全に防ぐ体制だった。南アの現実がこれなのだろう。未開拓の高山地帯からの人たちが職を求めて都会にやってきてスラム化し更に治安悪化になるというのが現実なのだ。それと道路を歩いているのは黒人のみ。白人は車か、サイクリング中かだ。そんな貧しい黒人の脇をバスは猛スピードで過ぎていく。信号待ちの場所では黒人の物売りが来る。どこの後進国でも同じようなものだ。貧富の差が全ての原因なのだろう?

「ペンギンさん」

第三日目(11月23日、土曜日)

昨晩は夕食後すぐに寝たが、足がつって目が覚めたら、現地時間の真夜中、即ち日本時間の午前7時だった。完全に時差ボケだ。午前中に「ネルそン・マンデラ氏」が捉えられていた「ロベン島」の監獄を訪れた。ケープタウンから南へ12kmの小島に監獄が設けられていた。1960年代に造られ、マンデラ氏はそこに18年の長きに亘り独房生活だったという。今はその監獄も世界遺産になっている。島は小さなもので、亀やペンギン、海烏等の鳥もおり、一見してのどかなようだが、政治犯を逮捕監禁した島として有名をはせた。彼の囚人としての生活を振り返ると、朝7時から3時まで労働、以後は独房生活。毎週3日は朝のシャワーがあるが、半袖、半ズボンの裸足、これが一年中の姿で、日曜の運動日以外は毎日「石切り場」で石灰石を掘り出していたという。冬の寒さは実に厳しかったようだ。独房の広さは2x3mでトイレはバケツだったという。勿論ベッドもない。床にマットを敷き、毛布2枚で一年を過ごしたという。この島、この監獄は南アの政治犯を収容するためのもので、所謂「アパルトヘイト」に反対する者たちを政治犯として収容していたという。刑務所内でも人種差別があり、アジア系や混血(カラード)と、黒人たちとは服装も食べ物も違っていたという。混血たちはそれでも長袖、長ズボン、ャbクス、靴が支給されていたらしい。さて、本筋に話しを戻そう。人口比、1:7の白人たちが350年以上の長きに亘り、なぜこの地を支配できたのか?その理由は別として、1990年代に国際社会の圧力もあり、アパルトヘイトはなくなり、自由平等?な社会が生まれた。そして今南アアフリカ共和国は、人口おおよそ5300万人(隣のジンバブエからの出稼ぎ労働者が500万人ほどいるらしいので、正確な数字は不明だとのこと)で、面積は日本の3.3倍、所得は平均月額5万円程度らしい。ヨハネスブルグは人口おおよそ800万人。ケープタウンは450万人の内スラム生活者50万人、ケープタウンには周囲に20以上のゴルフ場があるが、スラムの隣がゴルフ場なんていうのも見掛けた。スラムはトタン屋根でトイレもなし、電気もないのが当たり前、地方から都会へと職を求めてきた人々が、これまでの隔離政策で移動がままならなかったのが、自由になり、都会になだれ込んできたためのものだという。貧富の差がやはり激しい国なのだ。一部の白人層が富を独占しているためだろうし、相変わらず汚職が尽きないという。一般住宅を見てみると、高い塀に囲まれ、厳重なセキュリティが取られているようだ。資源は豊富で銀と石油以外は何でもあるという。特に金、ダイヤ、ウラン、石炭等が一杯あるという。ここも中国の影がちらつく。今、アフリカは中国の進出が本当に凄いらしく、あちこちのインフラ整備を行っているという。遅ればせながら、アメリカもアフリカに目を向け始めたという。日本はもっと遅れている。午後からはワイナリーを訪れた。9月のボルドー、10月のナイアガラ、今月の山梨と今回、ワイナリー巡りが続く年だ。「貴富ワイン」を2本購入した(250ランド=約3000円)。ワインは非常に安い。普通のボトルが1本500円程度からだ。ケープタウンに戻るとケーブルマウンテンの上から雲が滝のように街に向かって流れ落ちて来ていた。摩周湖では年に数回しか起こらない自然現状がここでは毎日のように起こっているらしい。これは素晴らしい。次々と雲が山の後ろ側から押し出され、こちら側に落ち込んでくるのだ。凄いぞ。ウォーターフロントという地区でベンチに座り、この現象を見ていたら、カモメたちの生存競争も大変なようで、人々が落とした食べ物を巡って、争いが絶えない。威嚇して他のカモメを近づけないのも人間と同じだ。私はダイエット中なので食べないように注意している。夜は「ライオンズヘッド」という山から夜景を見た。それよりも「南+字星」を見ることができた。これから何回見ることが出来るだろうか?空は晴れているが都会だから光で星は良く見えないのが残念だ。さてこの国の医療だが、世界で初めての心臓移植はこのケープタウンで行われたということで水準は高いが、病院と医師が不足しており、問題があるという。教育だが、義務教育は日本と同じ9年だが、誰でも学校に入れるため水準が低いという。多分これまで未教育だった黒人の子供たちに問題があるのだろう?反面大学入学は難しく、競争は激しいらしい。いずれにしても黒人が圧倒的大多数の国であり成長途上の資源国として今後名をはせていく国だろう。言語は「英語」、「アフリカーン」(オランダ語、英語、ドイツ語が混ざった言葉)、そして現地の黒人が使う言葉「高山語」と3つあるらしい。香港の空港の待合室で白人の親子連れがいたが、彼らの話す言葉は全く理解できなかったから、アフリカーンだったのだろう。スポーツ面でも差別があったという。黒人に許されたスポーツは「フットボール」のみ、白人は、「クリケット」「ラグビー」「ゴルフ」と何でもやれた。一番お金のかからないスポーツがフットボール、サッカーだったのだ。

「旅暦47、南アフリカの旅」

第一日目(11月21日、木曜日)
香港にやってきた。かれこれ10年位来ていないはずだ。ランタオ島の新しい空港ができる前のカイタック空港には何回来ただろうか?景気の良い頃には年2回はJALのファーストクラスで往復したものだった。これから南アフリカに飛ぶ。今回は無理してビジネスクラスを手配している。追加料金が往復32万円だが、長旅が堪える歳になったということか?

第二日目(11月22日、金曜日)
早朝のヨハネスブルグに到着。機内ではほぼ完全にフラットになる座席だったから、よく寝ることができた。都合13時間のフライトだが、6時間以上は熟睡できた。そして52か国目の訪問国南アフリカに着いた。今、ラウンジでコーラを飲みながらこれを書いている。今日は移動日でケープタウンに行き、半日観光の嵐閧セ。寝たとは言ってもやはり時差はきつい。日本との時差は7時間。もう日本を発って24時間だ。約2時間で南アフリカ第二の都市「ケープタウン」に着く。すぐに飛行場から「テーブルマウンテン」へと。ケープタウンの街を見下ろす1000mの山というか丘というか、上部が平らなテーブル上になった巨大な岩石の塊があった。今は春真っ盛り、紫色の「ジャカランダ」という花が木に咲き乱れ、実に美しい。さて中腹からロープウェイで山頂へ。このゴンドラ、円形をしていて、床の部分が360度回転をする。だから乗客はどこに乗っても、必ず360度景色を見渡すことができるという訳だ。まあ、1000mの高さから見下ろすケープタウンの街と大西洋の美しさは言葉に尽くしがたい。澄み渡る空、海の蒼さ、崖の途中には大型のモルモットのような動物がたくさんいた。天候が良いので日光浴に出てきたというその動物は「ダッシー」というらしいが、なんと象の仲間だという。どう考えても象には見えない。野鼠かと思ってしまう。日差しが強く、紫外線で顔が真っ赤になってしまった。このテーブルマウンテンだが、西の大西洋と東のインド洋を吹き抜ける風が強く、年間50日程度しかロープウェイが運航されないという。確かに夜、ホテルの窓の外を強風が吹き抜けていた。2010年サッカーワールドカップの準決勝を行った「ケープタウンスタジアム」が海岸縁に見えるが、おもちゃのような大きさにしか見られない。人口350万人の大都市だというが、もともとはオランダの東インド会社が野菜と水を船に供給するために作った中継基地が始まりだという。そこにインドネシアから奴隷を連れてきて、農場で働かせたとのこと。だから今でもイスラム教徒が多く、市内にも40以上のモスクがあるという。何年か前まで人種差別、人種隔離政策をとっていた国だから、今でも最下層の貧しい人たちのスラムが沢山あった。現地ガイドからは、「治安が悪いからメインストリートは歩くな」とのこと。「外出禁止令だな」。確かに路上生活者も多そうだ。貧しいと食べるため、生きるために何をするか、されるか分からない。さてホテルには午後4時過ぎに到着、早速シャワーを浴び、髭を剃った。人心地着いた。肝心かなめの懐中電灯を忘れてきたことに気が付いた。何に使うのかは知らないが、多分夜間の行動に使うのだろうが、困りました。江戸時代、オランダは日本の長崎の出島で貿易を行うことを幕府から許された唯一の欧州の国だったから、オランダ人たちは祖国を出てから、この地を経由して遥か日本まで出向いたのだった。スエズ運河が出来るまで、アフリカ最南端のここがヨーロッパとアジアを結ぶ海の道だったのだ。通信状況が悪い。WIFIは何度トライしても繋がらない。携帯も圏外侮ヲが多く出る。困りました。陸の孤島ですね。

「ジャカランダの花とテーブルマウンテン」

「手前勝手世界食物語、第318」

「ステーキ」
最近色々と食品の侮ヲでの問題が露呈しているが、久々に銀座高速道路下の「素適案」に行った。するといつも顔馴染みの男性が店長に昇格していた。あれあれ驚き、これまではチーフ級だった男性が店長のメーム・プレートを掲げていた。若い人が昇進するのはいいことだ。さて、今回も頼んだのは340gの巨大ステーキだ。USビーフだから和牛ではないが、ここのステーキは美味しい。煙草が嫌なのでカウンター席に座ったが、目の前にあったのが「オクトーバ・フェスタ」の写真だった。ドイツでは10月にこのフェスタがある。ビールの本場「ミュンヘン」では朝から写真のように人々が集まってビールを飲むという。勿論その時のおつまみは「そーセージ」と「ポテト」だ。話しをステーキに戻そう。先月のカナダでもステーキを食べたのは既にお話しした。それも前の席に座っていた札幌の女性に大きなステーキが来て、私には小さめのステーキが来たので交換しもらったものだ。これもカナダのいい加減さなのかもしれないが、小柄な年寄りの女性に大きなステーキを出して、私のような健康な?男性に小さなステーキはないだろう?まあいい加減さがこの国の特徴でもあるのだろう。さて、ステーキはいつもいうが、私は胡椒と塩だけの味付けがベストだと思っている。それをフランス風にメ[スで味を変えるのには耐えられない。ステーキは肉の味を楽しむだけの味付けが好きな私でした。
以上、東京から勢古口がお送りしました。

「中川船番所」

江戸時代、「交通の要衝」として栄えていた内の一つが「中川と小名木川」の交差点だった。江戸川と荒川から中川を通り、そこから江戸の中心部へ小名木川を経て大川(隅田川の下流部分の呼び名)へと入ってくる水運が重要な物流の拠点だった。そこに怪しい船が来ないかと目を光らせていたのが「中川船番所」だ。場所は小名木川と中川の分岐点。船の通行を見張る、今で言う「交番」のような見張り所だった。味噌、醤油、米、野菜等が北関東や東関東から運ばれ、江戸の庶民に供給される主要交通路だった。「船手奉行」というのがいて管理監視していたという。江戸と言う100万都市の需要を賄うためだから相当の物資が運ばれただろうと想像出来る。恐らくひっきりなしに船が通っていたのだろう。今はそんな面影は全くないが。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?31」
「刻み煙草」
キセルに詰めて吸う刻み煙草だが、江戸時代安い刻み煙草を「丸八」といったらしい。その意味は安い煙草はきちんと紙にも包まれてなく、今川焼きみたいに丸く、刻みを集めて紙の帯がかけてあるだけだったという。その値段が一つ8文だったから「丸八」といったという。

「火うち箱」
江戸時代、家庭で火を付ける、火を起こすには、「火うち箱」から「火口(ほぐち)、火打石、火うち鎌」を出す。「火うち鎌」は小さな櫛がたの板に、鉄片がはめ込んである。石英の火打石を鉄の部分に打ちつけて、発した火を火口に移す。「いちびの殻」を焼いて乾かした火口は燃えやすい。それを薄い木片の端に硫黄を塗った付け木へ更にその火を移し、灯心や蝋燭に付けた。行灯や灯籠に付けるのにもこれだけの手間が掛かった。

「家」
江戸時代は「家」というものが非常に重要だった。侍の家でも町人でもそうだが、「家」を継ぐということが当たり前で、血筋を重視はするものの、「家名」のほうがもっと重要視されていた。だから「世継ぎ」がいない場合は「養子」が求められた。武家の場合、家録は先祖の功績によって与えられたものだが、それは「家」に対して与えられたもので、世継ぎがいないとなると「家名断絶」になりかねないから、養子で後を継いだ。町人でも息子がいないか、出来が悪いと娘に優秀な婿を向かえ、家を継がせた。だから重要なのは「家」なのだ。後継ぎを作るために「妾」というのはある意味当たり前だった。子種を残すということが重要だったから、「妾」「側室」は必要だったのだ。以前にも書いたが、江戸時代には「妾屋」という商売があり、妾を斡旋していたという。氏素性の分からない女性を妾にする位ならば妾屋に頼んでその辺の心配のない女性を斡旋させたとも言う。これは武家も町人も一緒だったらしい。

「隠居への憧れ」

「江戸時代、隠居は遊びの達人だった」とNHKのラジオ番組で聞いた覚えがあった。
昔から「隠居」には憧れていた。だから早く隠居したいと思っていた。アメリカなどでは40代でも金が溜まったら隠居して自由な生活をすると聞いていたから、私も早くそんな身分に成れればいいなあと思っていた。色々なことがあったが、50歳の時、勤務していた大手商社の丸紅から、会社更生法を瑞ソして倒産した東証1部上場のコンクリートパイル会社「大同コンクリート工業」へ派遣されることとなった。それが1998年の春だった。営業を見ろということで東京営業所の事実上の所長となったが、同社内部に色々な矛盾があり、その年の8月に丸紅を退社して出向先の大同に転籍することとした。転籍の理由だが、当時の私の言葉で社員に伝えたのは「火中の栗を拾い、身をこの会社に埋めるため」だった。出向者として「いつでも逃げ帰られるという形では人は付いて来ない」との考えからだった。その時も早く隠居したいと真剣に思っていた。それから営業担当の役員になり、数年後には会社更生法からの甦生も果たし普通の会社になれた。その後も変遷はあったが、59歳の時、2008年6月末に会社を辞めて、憧れの隠居になることが出来た。同世代の人たちは殆どが更に働いていたが、何も心残りはなかった。「毎日が日曜日」というのが隠居だと思うのだが、今の今まで「毎日が忙しくて、忙しくて、スケジュールが一杯」というのが実感だ。これも性格なのだろう?何ヶ月先まで嵐閧?・んでしまうという悪い?癖は治らない。それでも隠居生活は最高だ。お金がなければ困るけれどね。その話しは次回にしましょう。

「紅葉とスカイツリー」
自宅近くを歩いていたら、都会でもそろそろ紅葉が始まってきていた。桜の木の向こうに「東京スカイツリー」が観える。春には爛漫の花が咲く桜も、秋のそれも晩秋の頃には葉も落ち、冬仕度を整えつつある。道端には落ち葉が沢山あり、風がその葉を巻き上げながら通って行った。