「ベリーダンス」

トルコと日本との関係は明治時代にトルコの軍艦が和歌山県沖で台風のため座礁沈没した時に地元民が救助し、日本政府が後日軍艦でトルコまで生き残った軍人たちを運んだ時から始まる友好関係だ。その後、「日露戦争」でロシアを破った日本に対してトルコは憎いロシアを破ったことで溜飲を下ろし、ますます「日本贔屓」になったという。第一次世界大戦でドイツと共に戦い負けて、海外領土の大半を失ったトルコは第二次大戦では中立的立場ながら陰でドイツ、日本を応援したという。コンヤでも若者がやってきて「日本人が好きだから、一緒に写真を撮って欲しい」と言ってきてツアー客全員と写真を撮った。彼の耳にはなんと日本国旗のピアスがあったのには驚いた。さて、カッパドキアの「洞窟ホテル」にチェックインした。インターネットの環境が悪かったこれまでの旅だが、このホテルでは直ぐに接続でき、大変助かった。昨日のホテルは一時的には繋がったが、その後は全く繋がらなかった。あれで「五つ星」とは如何かと思った。
カッパドキアの夕食は「洞窟レストラン」でのベリーダンス付きディナーだったが、このレストランには前回にも訪れたことを思い出した。ショーはそれなりに楽しめたが、わがツアーメンバーは舞台に引き出され、皆頑張って踊っていた。さてダンサーの収入は月70?80万円と高い。普通の地元の人の月収は5万円程度だという。本日のホテルは所謂「洞窟ホテル」五つ星ホテルだ。洞窟とは言え、部屋をよく観てみると、切り出した石灰岩を積み、斜面に段々畑状に造られている。洞窟レストランは確かに洞窟を大きく広げたものだったが、このホテルは洞窟風ホテルというのが正しいのだろう。今はオフシーズンだから別だが、ハイシーズンの一番安い部屋の料金は一泊300ユーロ弱だそうだ。写真は3S会の私以外のメンバー二人がダンサーと踊っている姿だ。

「シルクロード」

「シルクロード」
第4日目(1月24日、金曜日)
ほぼ行程の半分を消化した。カッパドキアまでの700kmの行程の日だ。途中、古都「コンヤ」で800年前からある「踊る宗教」のモスクに立ち寄り、バスの旅を続けた。アラビア文字で「アッラー」を表す文字は、縦一本の線を描き、頂点から右斜め下に小さな髭みたいなものを書く。書き順はその逆なのだが、文字の形としてはそんなもので、これが「ア」だ。次にアの左側に「W」の手書きを逆から下の部分を丸く描き、更に続けて左隣に手書きの「V」を描くと完成だ。数字1にWにVのようなのが右から左へと続く。これが「ラー」だ。こうして「唯一の神様=アッラー」の文字が出来た。Wの下の膨らみからの連想で「チューリップの球根」がイメージされ、イスラムの国ではチューリップが大切にされてきたのだという。遠くに富士山に似た山が見えて来た。「ハッサン山」だ。中腹からは雪を頂いている。この山については前回の旅行での記憶が全くない。ということは山が観えなかったのか、ガイドを言わなかったのか、果たしてどちらだったのだろうか?コンヤは巨大な平原「コンヤ平原」のど真ん中にある町で標高1000mにある。「シルクロード」の道をバスは進む。見渡す限り平原が続いている。こんな中を昔は「商隊」が歩いたのだ。商隊のラクダが約150頭連なり、一日約40km、延々と続くのは当時の「銀行団」にも似た存在だったという。貴重な品物と知識と富を運んだのだ。東から西には「絹織物、陶器、紙、金銀、香辛料」などが、西から東には「酒、薬、ガラス、宝石、武具」等々が運ばれたという。唐の都「長安」までの長い長い旅は片道一年間掛けて行われた。帰りも同じく一年間の旅だったという。インドからの仏典もそうやって運ばれ、最終的には日本にまで送られたのだ。奈良の「正倉院」の宝物もそうやって運ばれてきたのだろう。正にロマンを感じさせるシルクロードだ。ラクダは非常に長生きな動物で40歳から50歳まで出産することが出来たので良いラクダの値段は今の価値で100万円ほどしたそうだ。最後は肉と皮になったという。

「パレッカム」

「パムッカレ」
石灰石の上を温泉水が流れ、「段々畑」を造っている美しい場所だ。中国の「黄龍」と同じだ。元々そこには「ヒエラポリス」という古代の町があり、その横がパムッカレなのだ。まだまだ遺跡は発掘途中だった。段々畑は遠く高速道路上からも大きな白い丘として認識できる。その石灰岩の段々畑の下に温泉ホテル街が作られているが、温泉水を沢山使うようになって、温泉水が不足してきて、段々畑には日を変え場所を変えて温泉水を流すようになったので、全ての段々畑にお湯が流れていないのが非常に残念だった。

「エフェソス」

第3日目(1月23日、木曜日)
「トルコの姿」
人口は約76百万人、国土は日本のほぼ倍。言語はトルコ語でこれは日本語やフィンランド語と同じウラルアルタイ語系で、文法上の並びは日本語と同じだ。人種的にはモンゴロイドで赤ちゃんのお尻の痣(蒙古ハン)もある。平均年齢は29歳と若い国だ。義務教育は12年間で、6歳から小学校4年間、中学4年間、高校4年間だそうだ。英語は小学4年から始めるとか。大学は195校あり、国立がその内の90校だそうだ。高校からは第三外国語の習得が始まる。因みに日本語を教える大学が30校ある。一人の女子が生む子供の数は2.2人だそうだ。人口を増やすことが国力増強の要だから、政府は子ども手当を沢山だして、支援しているという。だからまだまだ発展する国ということだろう。教育問題で「塾の存在」が問題視されており、2015年までには全ての塾が廃止されるという。教師の数は何と90万人もいる。また、有名私立高校の授業料は年間200万円にもなるのもあるという。大学も私立は年間100万円と高いそうだ。大学生の希望の職種は、工業関係のデザイナー、或はコンピュータプログラマー、エンジニア、そして教師だそうだ。なぜ教師か?というと休みが多くて年間の勤務は200日程度だからだという。逆に弁護士や医師が余り好まれていないという。20歳から徴兵制度による兵役が1年間あり、軍はNATOに属していて、75万人規模でNATO第二位の数だという。1923年の共和制移行後、文字は従来のアラビア文字(右から左書き)からアルファベットに替えた。またイスラム教の国だが、「政教分離」しており、「一夫一婦制」になっている。トルコを訪れる日本人観光客は年間10万人程度。イスタンブールで暮らすには収入が15万円は必要とのこと。地方だと5万円程度の月収で済むらしい。以上が基礎知識だ。
「エフェソス」
シルクロードの西の端、スタート地点が「エフェソス」だ。古代遺跡が山とあり、未だ発掘率は20%程度だという。ローマ時代には「クレオパトラやアントニオ」も訪れた土地だ。写真はエフェソスのメインストリートでクレオパトラも歩いた通りだという。毎度のことだが、道路の歩道の部分に「裸足の足の裏と矢印」が示されていて、「世界最古の職業」の場所が大昔からこの港町にもあったことを指していた。さてイエスの死後、「マリア様と聖ヨハネ」はこのエフェソスに逃れてきてこの地で亡くなったという、ヨハネの死後、「聖ヨハネ教会」が墓の上に建てられ、最近遺骨も発掘され、手の一部分はイスタンブールに保存されているという。また「マリア様の墓」もその内見つかるだろうと地元では噂されているが、その場所を知っている、或は知ろうとしている人は暗殺されているという。誰が?勿論バチカンだろう。バチカンはマリア様の墓がエフェソスにあるということは全く否定しているという。しかし摩訶不思議なことに「エフェソス」は世界遺産に登録されていないのだ。遺跡の規模、保存状態からしても世界第一級の遺跡なのに。疑問は深まる。さてこの町の街路樹「オレンジ」には実がたわわに実っているが、誰も採らないという。エーゲ海に面した風光明媚で温暖、交通の要衝でもあり、本当に豊かな町だったのだろう。地元の家の屋根には「温水器」が必需品の如く設置されていた。たわわな日光が眩しかった。

「再びのトルコの旅、前半」「「トロイの遺跡」

「J  REPORT 2014 1月第5週号$1月第1週」
「リタイアメント・ノート 5年8ヶ月目」、
「VOL。831 SINCE AUG.12th、1983」
「旅暦48、再びのトルコ旅行」
最初トルコを訪れたのは、2009年11月だった。それから3年余、再びトルコを訪れることになった。
第一日目(1月21日、火曜日)
トルコ航空の直行便でイスタンブールへ向かう。まずは成田のANAラウンジで日本蕎麦を食べる。いつもの通りだ。イスタンブール到着後は夕食がないとのことでラウンジからサンドイッチやチーズを持ち出す。そうしたら突然私の名前が呼ばれた。何と昔の同僚がいるではないか。それは「S君」だった。私より4歳年下だが、大手商社時代の同じ部に勤務していた同僚だった。世の中は狭いというか、偶然とはびっくりだ。彼はこれからタイのバンコク経由ラオスに行くという。ジェトロに再就職しての出張だそうだ。さて、私はプレミアムエコノミーで12時間の空の旅だ。機内で単行本を3冊半読んだ。30分ほど寝たが、殆どは本を読んでいた。さて今回もトルコを反時計回りでほぼ一周する旅だ。二度目のトルコだ。イスタンブールは気温15度と比較的暖かい。明日からは風も強くなるというが、気持ち良い気候だった。人口16百万人の大都市イスタンブール。道路は慢性的な渋滞だった。これではオリンピックは無理だろう。人の割合に対して土地がなさ過ぎる。東京のほうが余程余裕がある。発展途上の国だから仕方がないが、小さな土地に人々が住み過ぎている。我々の今回のツアーは何と7名だ。我々「3S会」の男性3名の他には、女性同士の2組4人だけだ。これほど少ないツアーもまれだろう。昨年6月の反政府運動と、カッパドキアでのバルーン墜落と女性観光客殺人事件の余波で日本人観光客が激減しているという。それでも機内からは結構な数の日本人ツアー客が降りてきていた。だからエコノミークラスの座席は7割程度埋まっていた。流石にプレミアムエコノミー席は1割程度の埋まり具合だったが。そうそう、驚いたのは入国時に書類記入がないことだった。所謂入国カードが不要なのだ。

第二日目(1月22日、水曜日)
いよいよトルコの旅に出発だ。イスタンブールのヨーロッパ側、即ちバルカン半島側だが、4年間の間に大きく変化していた。まずイスタンブール郊外のベッドタウンが猛烈に発展していたという現実。確かにこの10年間でトルコは経済規模で3倍になり、世界第16位、ヨーロッパ第5位の準経済大国(GDPは約90兆円、国家予算は15兆円)?更に驚くのは、イスタンブールの人口は16?17百万人だが、実際にはイスタンブールに住む人の数は4百万人も多いというのだ。シリアからの難民にしても、2百万人がトルコに住んでいるという。その他周辺国からの人たちが沢山トルコで暮らしているという訳だ。郊外の発展も凄いが、道路も本当に良くなっていた。そして日本との間にFTAや原発、更に海峡の新橋建設等の契約が進展しつつあり、日本との間の関係強化が更に強められているという。地元ガイドによれば、「日本人は兄弟だ」という。さてフェリーでアジア側に渡る。道路が素晴らしい。殆どが片道2車線の準高速道路だ。「小アジア」と呼ばれるこの地域は、「歴史の宝庫」だ。「旧約聖書」の内容が一杯この当たりにある。例えば、「ノアの箱舟」が東部の山岳地帯で見つかり発掘中だという。イスタンブールの地下鉄の駅建設工事中に大成建設が古代遺跡を見つけたり、と枚挙にいとまがない。本日の目玉は「トロイの遺跡」だ。勿論世界遺産だ。ここはホメロスの叙事詩に影響されたドイツ人の「シュリーマン」が発掘発見したことで有名だが、歴史の見方をトルコ側から見るとまた視点は変わって来る。トルコ人の現地ガイドによれば、彼はトルコ政府の発掘許可も得ずに勝手に掘って遺跡を破壊したという。なぜならばトロイは紀元前3000年から紀元500年の間に「9回」町を造り、9回破壊さという歴史があるのだが、それを知らないシュリーマンがただ掘り出して、めちゃくちゃにしてしまったというのだ。そして貴重な遺跡の宝物も勝手に持ち去ってしまったという。戦後ドイツからソ連に強制的に移った宝物は未だにトルコには戻ってきていないという。今、トロイでは慎重に発掘作業が続けられている。木道が作られており、歩き易くなっていた。また「トロイの木馬」も前回のイメージと違って、大きく綺麗になっていたと思って、昔の写真を携帯から取り出してみたが、一緒だった。多分ペンキを塗り替えたのだろう。夕暮れ時から空には星が瞬いていた。

「ブルーモスク」

第7日目(1月27日、月曜日)
「ブルーモスク」
朝からイスタンブールは凍えていた。風も強く、気温零度。頭が痛くなる位の気候だ。それでも最終日の観光に向かう。「ブルーモスク」とはヨーロッパ人が言っている名前で、内部の美しいブルーのタイルから名付けられているらしい。1617年に10年の歳月掛けて造れた世界で4番目に大きい、ドーム状のモスクだ。非常に大きな建物だ。当時のトルコ帝国の力が如何にあったかが分かるというものだし、アラブ世界の数学が如何に高かったかということでもある。そこでイスラム教のお話しをしよう。まず5つの戒めがあるという。一つ目、一日5回の礼拝。二つ目、年に一度のラマダン。三つ目、収入の2.5%を喜捨する。四つ目、豚肉を食わないのとお酒を飲まない。五つ目、一生の間に一度メッカを巡礼すること。といった具合だという。トルコは違うが他のイスラムの国では一夫多妻(妻は4人まで)だが、新しい妻を得るためには前妻たちの了解が必要だという。また離婚も簡単に出来るらしい。人には3つの平等があるという。神の元では全ての人が平等であり、モスクの中では全ての人が平等であり、死して墓に入れば全ての人が平等であるというのだ。これがイスラムの教えだ。ガイドのフセインさんは盛んにコーランを読めといっていた。まあ、私の乏しい知識によれば、旧約聖書はユダヤ教、新約聖書はキリスト教、そして最後がコーランのイスラム教だが、それぞれ沢山の預言者がいたが、最後の最高の預言者が「モハメッド」だという考えがイスラムの基本だ。モーゼもキリストもモハメッドの前には足下にも及ばないという。そんなイスラムの国だが、トルコは比較的緩やかな宗教生活をおくっている。2011年の東日本大震災の時にはトルコ全国で8万か所の募金箱が設定され、支援を募ったという。親日的な国、トルコを我々も応援しよう。朝、革製品屋に行き、「シルクレザー」という実に軽くて光沢がある「子羊の皮」でできたブルゾンを買ってしまった。今夏の旅では大枚を使った。さて、今回で二度目のトルコの旅だが、旅行会社は前回はH社だった。今回はいつも使っているCT社だったが、サービス度合いが違って、断然今回のほうがよかった。ホテルも殆どが5つ星だし、バスも34座席しかないゆったり豪華バスだった。観光地での案内もまた買い物も親切丁寧に案内してくれ満足だった。最後空港で免税措置があるのだが、ここの役人の態度に腹を立てた私でした。それでも無事にトルコ航空機に搭乗しました。今、機内でこれを作成しています。無事に成田に着いたなら、早々にアップデートします。いつもご愛読ありがとうございます。

「イスタンブールの地下宮殿」

「イスタンブールの地下宮殿」
第6日目(1月26日、日曜日)
朝、まだ暗く寒い。午前5時35分、モスクから「コーランの祈りに参加するように」と促す声が流れて渡る。昨日午後からの雨が冷たく降っている。一日5回の祈りをイスラム教徒は行う。実に神聖な呼びかけの声だ。カッパドキアを早朝に出て、東に一時間、「カイセリ」という町の飛行場からイスタンブールへと移動する。カイセリというのは「カイサルが造った町」というのが元の言葉だそうで、「カイサル」即ち「シーザー」が造った町だという。それほどに歴史の古いシルクロードの町なのだ。戻ってきたイスタンブールは冷たい北風が吹き、本当に寒かった。和食の昼食を終えてから「旧市街」の「地下宮殿」、「アナソフィア」と「トプカプ宮殿」を観光した。実は「地下宮殿」は今回が初めてだった。地下の巨大水槽なのだが、何と8万トンもの水を貯めていたという。理由は戦争で包囲され、長期にわたって籠城する時の水不足に対応するためのものだったらしい。地下に300本もの柱が建てられ、巨大水槽が確保されていた。一番奥に伝説の「メデゥーサ」の巨大な頭部が石に刻まれていた。写真はメデゥーサの石像。逆さまにされている。

「博多、もつ鍋の七山」

「手前勝手世界食物語、第324」
「博多、もつ鍋の七山」
もう何度もご紹介した行き着けの店「七山」。ご主人が佐賀県七山のご出身なので名付けられたと聞く。この店の不思議は場所(福岡市中央区薬院大通り)は余り良くないのに、一見の客が沢山訪れることだ。まあ、以前には私のブログを観て訪れた人もいたそうだが、私にとっては博多の第二の自宅みたいに居心地のいい店なのだ。ここの「もつ鍋」の味を私は「博多一」だと思っている。年末の家族会にもここのもつ鍋を送ってもらって親戚一同で食べたが、いつもながら美味しい。新鮮な牛モツとキャベツ、ニラ、そしてトッピングで「黒豚カルビ」を加える。勿論大量のニンニク入りです。これを取り皿に「柚子胡椒」と「酢醤油」を加えて、更に「刻み唐辛子」もパラリと振りかけ、具を鍋から出して食べる。まあ簡単なものだが、だから余計に奥が深いのかも知れない。博多の母の味といった感じだ。残念なのはこの店で以前は食べられた「レバ刺し」が食べられなくなったことだ。美味しかったのに本当に残念!

「屋台の蕎麦屋」

「屋台の蕎麦」
所謂「夜泣き蕎麦」などで使われていた「屋台の蕎麦」の原形がこれだ。屋台は今で言う「ファースト・フード」で、手軽に庶民でも食べられた。その他「天麩羅」「寿司」も始まりは屋台からだった。日本人はこういうものを作るのが実に上手いね。これを担いで町を歩けば、お客が寄ってくるという仕掛けだ。その後、お金が溜まれば、店を持てばいい訳だし、手持ち資金が少ない人の商売にはもってこいだったと言えよう。今の屋台はもっと本格的な店舗に近くなってしまったが、昔の規模はこの程度で充分だったのだろう。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?38」
「大坂の食い倒れ」
元々江戸湾は「キス」「はぜ」「こはだ」などの小魚が多く獲れた。しかし大阪湾では「鯛」「ぶり」「はも」「穴子」など比較的大きな魚も獲れた。それに木津や難波の「葱、干瓢」、天王寺や平野の「蕪、大根」、河内の「ごぼう」などとの相性もよく、秀吉の時代から食文化が発達したという。それが「大坂の食い倒れ」と言われる文化をかもし出すことになったそうだ。「大坂の食い倒れ」「京の着倒れ」「江戸の呑み倒れ」とは良くその文化を表わしていると言えよう。しかし、実質的に江戸中期からは「江戸の食い倒れ」と言われるほど江戸での食文化が上方を凌ぐほど発展していたようだ。まあ江戸は百万人都市だし、全国から武士が集まっていたのだから、当然と言えば当然か。江戸前の魚も美味しく、江戸前寿司などにもなったから、多分大坂の人たちは歯軋りしていただろう。

「夕暮れ時」

「夕暮れ時」
夕日も沈み、薄暗くなってきた豊洲での一刻、「ラインボーブリッジ」も美しく観えた。昔はこの時期は日が短いので「短日」といっていた。因みに夏は「長日」という。江戸時代の時刻は夏と冬でその長さが違ったことはご存知だと思うが、夏の「明け六つ」から「暮れ六つ」までの「六刻」と冬のそれとは当然長さが違うが、一刻は一刻として鐘を鳴らしたから、実質的に夏は昼が長いから、夏の一刻は冬の一刻より長いということになっていた。「日の出から日の入り」までが昼間であり、「明け六つ」から「暮れ六つ」までのことだった。のんびりした時間感覚でした。多分夏の日の出から日の入りまでは実質13時間以上だろうし、冬は10時間強だろうから、それを六等分したら当然一刻の長さは違ってくる。でも江戸時代はお構いなしに一刻の長さが違ってもいいようなのんびりとした生活をしていたということだ。待ち合わせ時間などあってもないが如くで、まあ携帯電話もないから、せかされるような生活をしていなかったといういい時代でした。