「ウズベキスタンの旅、後半」

「J  REPORT 2015 3月第2週」
「リタイアメント・ノート 6年9ヶ月目」、
「VOL。888 SINCE AUG.12th、1983」
「旅暦58、ウズベキスタンの旅、後半」61カ国目
3月3日(火)
英雄の「アムール・ティムール」=「鉄のスルタン(王)」は、欧州人には非常に好まれているらしい。理由はオスマントルコを一時的にしても支配下に置いたことによる。ご存知の通り、ヨーロッパの国々とオスマントルコは常に地中海の覇権を巡って、また聖地エルサレムを巡っても戦っていた。そのトルコを支配したティムールはヨーロッパにとってはある意味救世主みたいなものだったらしい。彼の時代の支配地域は、西はトルコ、東と北は今の中央アジア全体、南はインドのデリーだったというから広大だ。トルコがヨーロッパを攻めようとすると欧州はウズベキスタンに同盟を持ち掛け、またトルコも同じく同盟を持ち掛けるというような複雑な関係だったらしい。今も昔も政治の世界は汚い。昨晩は夕食の後、ライトアップされた遺跡群を訪れた。青のタイルを基調にした遺跡の壁面にライトが当たり、更に神々しくなっていた。はずだったが、疲れたので早々にホテルに戻ってしまった。というもの予定していたレストランが停電でろうそくの灯りを頼りにしての夕食となった。やはり落ち着かない。電力事情ということでやむなく、闇鍋状態で食事をしたので疲れ果てて即帰りとなった。あとから分かったのだが、ライトアップは大統領訪問のために中止になっていたということだった。気が付いたが、ウズベキスタンでは列車の踏切では日本と同じように一旦停止が義務付けられている。欧米では線路の踏切は安全確認さえすれば警報がなっていない時は自由に渡れる。日本とウズベキスタンは同じように一旦停止だった。サマルカンドからタシケントには列車の旅となった。約3時間半。ある女性からの依頼で列車内にて「江戸学」のようなものを講義してしまった。これまで知っている江戸や江戸時代についてのお話しを延々とさせてもらった。駅に入ると鉄道の点検員がやってきて、打音検査をしていた。さてウズベキスタンの休日だが、3月8日が「世界婦人デー」、3月22日が「春の祭り」、5月9日が「終戦記念日」、6月1日が「こどもの日」、9月1日が「独立記念日」、だそうだ。1991年にソ連邦から独立した。漸く出発地のタシケントに着いた。この国の鉄道も空港同様非常に厳しい警戒態勢にあり、入口で荷物検査を行い、駅構内に入る。だから駅には乗客しかいない。迎えの人はかなり離れた場所で待機しているしかない。どうみても社会主義国家の管理体制みたいだ。余談だが、昨日は大統領の遊説でやむなくバスを降りて徒歩でホテルまで戻ったが、バスの運転手がその場で何と5時間も待たされたという。これが民主的な国なのだろうか? まあそれでも見も知らない我々に挨拶をしてくる国民性には驚きだ。駅に入ると鉄道の点検員がやってきて打音で不具合の有り無しを判定していた。

「楽器を演奏する人」

3月2日(月)
地上で最も美しい都市と言われている「サマルカンド」、ブルーのドームが青空に映える街で14世紀から17世紀に掛けて「シルクロードの中心地」だったところだ。流石に素晴らしい遺跡群だ。兎に角一度は行ってみる価値があるのがこのサマルカンドだと思った。ウズベキスタンの英雄「アムール・ティムール」とその息子や孫たちの墓、霊廟があるのもこの街だ。地元の民族楽器を演奏する人がいて哀愁の籠ったどちらかといえばアジア的な音楽が奏でられ、やはり同じアジア人同士、何か血の繋がりを感じさせるものがあった。今月末に大統領選挙があり、現職の「カリモフ大統領」が遊説に来ていて交通が規制されて制限を受け、やむなく途中からバスを降りて徒歩でホテルに戻る羽目になってしまった。ティモールとその子孫たちの華やかな時代(所謂ティモール期)に造られた豪華絢爛な「メドレッセ(神学校)」、「キャラバン・サライ(商隊宿)」、「モスク(教会)」、「ミナレット(尖塔)」、「霊廟」があちこちにあり、観光客を飽きさせない素晴らしい街だった。よかったです。ここに来られただけでも今回の旅の意味があったというよう。それにしても公衆トイレは汚いし困ったものだ。トイレでその国の民度を計れるというが正にウズベキスタンは残念ながら発展途上国の域を脱していない。国内で自動車や航空機が造れてもそれだけで民度が上がるかといえば決してそうではなく、まだまだ低い民度に甘んじなければならないのだろうが、国民性が明るく人が良いようなのであと10年もすれば一定水準には到達すると思った。中国人が依然として低い民度、道徳観、慣習、利己主義のままで海外に出て行くのからすれば、ウズベク人のほうがずっとマシだと思った次第だ。この国の自転車なのだが、地方の古い自転車にはブレーキがない。どうやって止まるのかと聞いたら、回転を逆にさせるというのだ。本当だろうか?日本でもノンブレーキ自転車が問題視されていたが、こちらでは子供まで乗せて堂々と走っていた。流石に新しいのには皆ブレーキが付いていた。さてこれまで訪れた各都市の位置関係を総括してみよう。首都のタシケントは東にあり、すぐ北はカザフスタンだ。次に訪れたヒヴァは、真西に飛び、トルクメンスタンの国境近くだ。ブハラはヒヴァの東南、ブハラは更に東南、シャフリサーブスは更に東南で、サマルカンドはシャフリサーブスから来たに向かったところだ。明日戻りタシケントはサマルカンドの東北に当たる。ウズベキスタンの国の中心に時計があったとすると、タシケントは3時、ヒヴァは9時、ブハラは6時、シャフリサーブスは5時、サマルカンドは4時半のような関係だ。この国、どこへ行っても建設ラッシュだ。遺跡は復旧作業が行われ、道路以外は建物も含めて凄い勢いで工事が行われていた。数年すると見違えるのだろう。

「動物市」

3月1日(日)
ブハラからバスで聖地シャフリサーブスへと向かう。市内から郊外へ向かうとソ連時代の4階建てのアパートが続く。勿論エレベーターなどある訳がない。お年寄りには大変だろうなあと思う。農村部には広大な農地があり、春には綿花が植えられるという。さてこの国の土地は全て国有。農民は何をどの位作るかを申請して土地の割り当てを受け、借り受ける。綿花と麦は生産量が割り当て制になる。その他の作物や野菜、果物は自由に作れるし売れるという。更に進むと「ステップ」という草原になる。「サクサクル」という低灌木が植わっている砂漠だ。どこまでも広がっている。農村の家は土壁で屋根はトタン、物置小屋は土壁に屋根は草が植わった土、芝生のようなもので出来ていた。動物は羊や牛、馬、ロバ、鶏を飼っている。羊の肉が一番高く、お祭りの時に食べるのだという。ラマダン明けが最も消費が多いのだろう。喜捨の精神で富んだものが貧しい人に施しをするのがイスラムの原則だから。さて農村部を含めたこの国の問題点は3つある。まず全てはインフラによるのだが、第一に道路の未整備(高速道路はない、道はデコボコ穴だらけ)、第二に電力不足(たびたび停電が起こる)、第三が水不足(トイレに水が出ない。ホテルの風呂にお湯が出ない)だ。これらが解決されるにはまだまだ時間が掛かるのだろう。途中、パトカーに護衛されたコンボイが走っていた。石油タンクを4つに分けた鉄の構造物を運ぶトレーラー群だった。これがデコボコ道をノロノロ運転するから渋滞となってしまい、本来ならば2時間で行けるところが3時間も掛かってしまった。途中、日曜なのでバザールが開かれていたが、それも動物のバザールで牛や羊、ロバが連れてこられてセリにかけられていたが、大勢の人たちが集まっていて大変迫力があった。必死に逃げようとしているロバが哀れだった。シャフリサーブスのことを書く前に、まずはウズベキスタンの歴史を確認しよう。ウズベキスタンとはウズベク人の国という意味だが、大昔、イランから「ゾロアスター教」所謂「拝火教」が伝わり、その後「仏教」が伝来した。また「アレキサンダー大王」も侵入(BC329年)したし、8世紀には「イスラム教」が入り、また13世紀には「モンゴルのジンギスカン」が侵攻してきた。14世紀にこの地出身の「アムール・ティムール」が王朝を起てた。アムールはマハラジャ、王様の、ティムールは鉄の意味。その子孫がインドに渡り、16世紀にあの「ダージマハール」を造ったから、インドの王様の一部はウズベキスタン系なのだ。知らなかった。ティムールが造った宮殿で「アクサライ宮殿」というのがある。二つの50mもある塔の最上階に昔はアーチ状の連絡橋(多分20mはある)があり、その橋の上にプールを造り、4人のお妃に水浴びさせたというのだ。現代でいえば「マリーナ・ベイ・サンズ」みたいなものだろう。驚きの発想だ。水を上まで人力で揚げたかどうかは知らないが大変な苦労だったろう。勿論今は40数mの塔の下の部分が残っているだけだ。国土の60%が砂漠、20%が山地(パミール山脈)、20%が平野、農業国で綿花、麦、米を主力に、また石油、天然ガス、石炭、金、銀、ウランもあるという。学校は全てが国立で学費は無料。幼稚園は3歳から6歳でこれは義務化されていない。義務教育は小学校5年、中学3年、専門学校3年までで、その後の大学進学率はなんと85%だという。勿論奨学金もあるという。因みに大学の数は63校。気候は大陸性だから、夏は暑く、冬は寒い。春(3月から5月)と秋(9月から11月)がベストシーズンらしい。夏は40度、50度の世界だし、冬はマイナス40度の世界にもなるという。代表的は果樹、樹木は、杏子、桑、桜、リンゴ、モモ、アーモンド。漸くサマルカンドに着いた。疲れた。余談だが、例の墓石に写真を刻むのは実は機械ではなくて手掘りだということが判明した。手で写真のように濃淡をだし写実的に石に彫り込むのは職人さんの手作業だそうだ。恐れ入りました。サマルカンドに近づくと右手に山々が観えて来た。まだ雪が残っている。それにしても道路が穴ぼこだらけで酷い状態だ。幹線道路はまだしも田舎はどうしようもない。小船に揺られているみたいだ。だが、地元の人は人懐っこい。直ぐに手を振ってくれるし、会えば「ハロー」と声を掛けて来る。その笑顔が本当に素晴らしい。田舎道をロバに乗っている人もいるし、羊の群れを連れている人もいた。日々の暮らしは楽ではないのだろうが、決していじけず屈託のない生活をしているようだった。道路脇には白い花を咲かせる木があり、ほぼ7分咲きだったが、あれが杏子の木だったようだ。まるで日本の桜の時期のような光景だった。

「ピロシキを揚げる女性」

2月28日(金)
「第二のメッカ」と言われているイスラムの聖地が「ブハラ」だ。イスラム教の神学校、モスク、ミナレット、霊廟があちこちにある街だ。その中心部に一際高いミナレットがある。蒙古の元が攻めて来た時、ジンキスカンがこのミナレットを見上げたら、帽子が落ちてしまい自らが拾ったところ、ミナレットに頭を下げる格好になったので、「このミナレットは私に頭を下げさせた」として破壊しないように指示したという伝説があるという。50m近くの高いミナレットだ。勿論全てが世界遺産だ。ミナレットの役割は、一つにはお祈りの呼び掛け、二つ目は物見台、三つ目は死刑執行場所(放り投げる)、四つ目は夜の灯台だという。夜は真っ暗闇になるのでミナレットの上で火を焚くと遠くを旅する商隊に灯台の役割を果たし、この地に到達出来るのだというのだ。合理的な考え方だ。街には「キャラバン・サライ」と言われる商隊宿もある。ラクダを連れた商人たちが寝泊まりしたという。ウズベキスタンは基本的に海抜150m?200mの平らな盆地にあり、東に4000m級の山脈があり、夏暑く、冬寒い砂漠の土地だ。暑い時は50度にもなり、寒い時は零下40度の日もあるという。実に厳しい土地柄だが、逞しくこの地の人たちは東西の物流の交差点として商売に励んできたのだろう。さて、バザールも大小あちこちにある。写真はバザールでウズベキスタン風ピロシキを作って売っている女性だ。小麦粉の中にジャガイモを入れて薄く延ばしてから油で揚げるだけのシンプルなもので、一個500スム、25円だった。話しは変わるが、現地ガイドさんに聞いたら、やはり車の色は白かシルバーが人気だという。だから白が圧倒的に多いのだそうだ。若い女性は細くて美しいのだが、中年を過ぎるとやはり太り過ぎていた。何が原因かは知らないが、ヨーロッパでも中央アジアでも一緒だった。街に「アルク城」という巨大な城壁がある城がある。広さ4ヘクタールという広大な城だった。その昔、蒙古に抵抗したが全滅させられたという歴史も持つらしい。兎に角蒙古は怖かったのだろう。徹底的に破壊し尽され再建に次ぐ再建を重ねたという城だそうだ。確かに凄い城だった。シルクロードの十字路であり、イスラム文化の中心都市だった「ブハラ」、夕日が落ちようとしていた。夕食時に現地の歌と踊りのショーがあった。踊り手の若い女性たちは皆スタイルもよく、美しく、官能的な踊りを観ることが出来た。

「花嫁」

2月27日(金)
イスラムの休日だ。朝からヒヴァは快晴だ。雲一つないが、屋根には雪が残っている。今日は一日徒歩での観光らしい。楽しみだ。13世紀頃から続く古い城壁都市がヒヴァだそうだ。全長2.2kmの城壁に囲まれた古い都で勿論世界遺産だ。東西南北4つの門が出入り口だ。そして内部はイスラムの尖塔「ミナレット」が立ち並び、城壁内には王宮が幾つかと、モスク、霊廟、墓、一般市民の家等々がある。ここに住む人たちは昔からの住民で所謂特権階級のお金持ちが住んでいるという。空が綺麗だ。数日前に降った雪がそこかしこに残っているが、空は真っ青で澄み切っている。建物の中にはタイルで装飾が施されたものがあり、その色は空を表す青と紺色で出来ている。正に東西文化の融合地点だ。「ハーレム」とはアラビア語で「禁止」という意味で、王様以外には立ち入り禁止地区なのだという。王様は4人の后と40人の側室とハーレムで暮らしていたという。大変なことだ。ご苦労様でした。気温は5度、日差しがあれば暖かいが影になるとやはり寒い。ダウンジャケットは離せない。街の人たちはスラブ系やアジア系、イラン系、ヨーロッパ系と色々混ざっているようだ。黒人は一切見なかった。美人が多い。イスラムの休日なのだろうか、結婚式を二組観た。初々しい花嫁さんだった。こちらの人の平均寿命は女性70?75歳、男性60?65歳程度で低いから女性の結婚年齢は18?9歳だそうだ。20歳を過ぎると晩婚だというらしい。ここは元々砂漠の中にある街で近くを大きな川が流れていて、水は豊富な所らしい。もう一つ驚いたのには現地人は金歯が多いということだ。虫歯になると金を被せるということだ。上下の前歯全部が金だという人が何人もいた。笑うと恐ろしい。昔の日本の農村の人もそうだったよね。観光地だけあり物売りが沢山いる。売りに来るのは毛糸やラクダの毛の手編みの靴下、絹やパシュミナ、ラクダの毛のスカーフ、ミンクやその他の動物の毛皮の帽子、木彫り細工、アクセサリー等々だ。値段は交渉次第、支払いは米ドルだ。私は買わなかったが、パシュミナのスカーフを3枚20ドルで買っていた人もいた。中心部に昔の奴隷市場があった。戦争で敵国の捕虜を奴隷にして売っていたという。また刑務所もあり、犯罪者を収容したらしいが、一番驚いたのは姦通した妻に対する処罰で、市民の目の前でミナレットから突き落として殺したり、袋の中に妻と野良猫を3匹入れて口を縛り、棒で叩くと中の猫が妻に爪を立て最終的に妻が死ぬという刑罰があったという。これも恐ろしいがイスラムの風習なのだろう。雪を解かすために道路脇の雪を日の当たる場所に振り撒いている一群の人たちがいた。リーダーは男性のおじさん、作業員は女性陣。おじさんがどなりながら作業をさせていた。おどろおどろしい風景だった。女性も皆働いているのが元社会主義国の特徴なのかもしれない。物売りの大半は女性だった。地元の料理にも慣れて来た。大体がサラダ類が前菜で出て、スープ、メインディッシュ、デザートだが、野菜類は豊富だし、肉は鶏肉、ラム肉、牛肉とバラエティーに富んでいる。卵料理も多い。朝がビュッフェ形式でなく、セットメニューなのが辛い。お菓子風のパン類、チーズとハム、玉子焼き、ナン、これでは食欲が湧かない。勿論食べるつもりはないのだが、野菜か果物を食べたいのだが、無理なようだ。一日ヒヴァで過ごし、夜に飛行機でブハラに移動する。今度はエアバスのジェット機で乗り心地もよかった。ホテルには午後11時到着。疲れた割には緊張して眠くない。今日もウォッカを3杯も飲んでしまった。実は白状するとタシケントの空港で私一人飛行機に乗り遅れそうになった。待合室で本を読んでいて、コールが聞こえず、慌てて最後の一人で乗ることが出来た。危なかった。

「ウズベキスタンの旅」

「J  REPORT 2015 3月第1週」
「リタイアメント・ノート 6年9ヶ月目」、
「VOL。888 SINCE AUG.12th、1983」
「旅暦58、ウズベキスタンの旅」62カ国目
ウズベキスタン国営航空のビジネスクラスで成田を出発したのが2月25日(水)の午後9時20分。ANAラウンジで今回は「オリジナルチキンカレー」を食べた。中々いける味だった。万民向けの日本のカレーといった感じか。機内ではゆっくり寝ることが出来た。ウズベキスタンの首都タシケントには現地時間午前3時半到着、時差4時間、約10時間のフライトだった。気温摂氏1度とのこと。パスポートコントロールは直ぐに抜けたが、税関で待ちに待たされ、到着後2時間で漸く外に出た。税関検査が厳しく、ソチからの出稼ぎ労働者の列が長く、またチェックに時間が掛かり、混雑を極めた。社会主義時代の名残りなのだろうか、この効率の悪さは。さて外には物凄い数のタクシーの客引きが並んでいた。ホテルには10分程のバスの旅で到着したが、バスルームのシャワーがどうしても出ない。仕方なく風呂にお湯を溜めて身体を洗おうと思ったが、今度はパッキンが閉まらないのでお湯が溜まらない。困りました。まあんなものか。両替をした。持参した米ドル30ドルで現地通貨7400だという。通貨の呼称は忘れた。1円は現地通貨で20に相当する。
2月26日(木)
ホテルには午前5時半着、6時半から朝食を食べ、少し仮眠をしてロビーでネットを立ち上げメール等を観る。朝食は果物にトマトを食べた。昼から市内観光。イスラム教の神学校を二つ廻る。その他余り観るものはない。タシケントの特徴といえば、高い建物がない。道路の舗装が酷い。ソ連時代のアパートが朽ちかけている。乗用車は圧倒的にGMが多く、日本車は殆どない。後で分かったのだが空港近くにGMの大きな工場があったから、国産車がGMなのだろう。その車だが、白い車のオンパレードだった。山が全くない。平坦な地形が360度広がっている。聞くと、この国、イスラムの国だと思っていたら、ソ連時代には宗教が禁止されていたので、実際にはイスラム教、ロシア正教が混じっていて、無宗教の人も多いそうだ。誤解していた。政教分離で国は宗教にはかかわらないそうだ。バザールに行った。ごった返すような人が道端に露店を並べて色々な物を売っていた。食べ物、野菜、靴、靴下、下着、スリッパ、子供服、等々何でもござれだった。直径30cmほどの円形のパン(ナン)が売られていて、熱々で美味しかったらしい。私は食べなかった。バザールではトルコ風のケバブやホットドッグ、串焼き、韓国風キムチなども売られていた。昼はウズベキスタン風中華料理、まあまあ食べられるものだった。さて驚いたことがある。まず地下鉄に乗ったが、古い4両編成の電車なのだが、車両から車両へは移れない。地下鉄構内は写真撮影禁止、これは軍事基地の意味だという。3路線一律1000だから50円。構内の壁の装飾は美しかったが、残念写真はなし。もう一つ日本人墓地があった。現地の人たちの墓地の奥にあったが、驚くなかれ、現地の墓地の大きな墓石には死んだ人の顔や全体像がまるで生きている時の写真のように刻まれているのだ。1m以上ある墓石に刻まれた姿、これを夜観なくてよかった。夜ならばあちらこちらに幽霊がいるみたいだ。恐ろしい。知らなかったが、戦後シベリアに抑留された日本兵なのだが、実はここ中央アジアのウズベキスタンにも沢山送られてきていて、多数の日本兵が死んだという。極寒の地での仕事はレンガ造りだったという。死者のその一部がここに埋葬されたという。本来は大きな穴に無造作にいっしょくたに投げ込まれていた遺体を地元の人が掘り起こして一体づつ埋葬し直して日本人墓地としたという。シベリア以外にも送られていたなど私たちには教えられていない事実だった。ここには日本全国からの抑留者79名の墓碑があった。ご冥福をお祈りします。ウズベキスタンという国は今回の旅で初めて知ったのだが、中国の西、アフガニスタンとイランの北、ロシアの南、本当に中央アジアの国々の中央に位置しているのだ。周囲はカザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、アフガニスタン、トルクメニスタン、カルカル・バクスタアン等に囲まれている。日本のODAによる援助が多いらしい。天然資源には恵まれた国だという。その昔玄奘三蔵がインドへの旅で通過した国でもある。さて、夜の便で西に移動して世界遺産のある「ヒヴァ」というところに移る。飛行機で約2時間の旅だ。空港はセキュウリティチェックが厳しい。何人も荷物を開けられる人が出た。空港自体が軍事施設で写真撮影禁止だ。従って車もターミナルからかなり離れた場所でないと止められないから、利用客は荷物を自分で徒歩で運ぶ必要がある不便なところだ。さて夕食時ホテルではウォッカを3杯飲んだ、一杯5000スムだから日本円で250円でした。

「やさいの王様」

「手前勝手世界食物語、第363号」
「やさいの王様、ブラウン・マッシュルーム」
日比谷にある「やさいの王様」という店に行った。その名の通り、メインは野菜だ。生の野菜が沢山食べられる。まずはちょっと小振りなグラスに生野菜を詰め放題にして食べる。如何に小さなグラスに効率よく野菜を入れられるか、これはちょっとした技術かも知れない。最初の日はコース料理を頼んだが、二度目はアラカルトにした。その一つは写真にもある「ブラウン・マッシュルーム」だ。巨大なマッシュルームがどかーんと出てきた。直径10cm以上の大きさ。味が染み込んだ中々のものだ。その他、巨大な卵焼きも美味しかった。この店、中々の味とリーズナブルな値段で女性向の店のようで、お客の大半は女性だった。女子会華やかなりでした。
以上、勢古口が東京からお送りしました。

「泰明小学校」

「さいたま歴史研究会(仮称)」
前回もお話しした庄内地方は鶴岡の商家の女主人「清野」さんが供を二人連れての江戸見物は、初日は昼は千住の「料理茶屋」、翌日は上野「寛永寺」、3日目は歌舞伎見物と茶屋での食事、4日目は鶴岡藩酒井家の上屋敷にご挨拶、5日目は小石川の伝通院へ墓参り、6日目は船宿で藩邸の人から接待、その後隅田川から船で山谷堀から吉原見物、花魁道中を見物する。7日目、鶴岡藩中屋敷で挨拶後、上野不忍池、池の端の茶屋で食事、浅草寺見物、8日目は両国広小路、富岡八幡、深川三十三間堂、洲崎弁天、木場、亀戸五百羅漢寺、梅屋敷、最後は隅田川の船宿で食事。9日目はまたまた上屋敷で奥向き所謂大名のご家族の生活を見学、因みに上屋敷は今の大手町の気象庁のところだ。10日目はまたまた芝居見物、11日目は浅草三社権現祭礼の宵宮見物、12日目は流石に休日、等々まだまだ続くが、兎に角健啖家で健脚だということが分かろう。これら全てが徒歩なのだから驚きだ。

「泰明小学校」
銀座に唯一ある小学校が「泰明小学校」だ。今もバスなどを使って通学する生徒が沢山いる。この建物、上から見ると不思議な形をしていることが分かった。細長い建物の先頭部分が丸く半円を描いているのだ。調べてみたらっこの建物、関東大震災後の震災復興事業として建てられて鉄筋コンクリートの建物だというから相当に古いものだ。90年は経っていよう。東京都の歴史的建造物にも指定されているという。目の前が「みゆき通り」だし、島崎藤村も出身校でもあるらしい。門扉は「フランス門」と呼ばれる独特のものだというから歴史に溢れている学校でした。この学校、明治10年設立されたらしい。

「数寄屋橋」

「数寄屋橋」
数寄屋橋と聞いて思い出すのが、実際は私は聞いたことがないがNHKのラジオドラマ「君の名は」(昭和27年28年放送)だろうか。女風呂から人がいなくなったという話しは有名だ。私が知っているのは映画化された「君の名は」の主人公が「岸恵子さん」で彼女の実家が私の家の近くだったからだろう。映画も観た記憶はない。写真は旧「東芝数寄屋橋ビル」の建て替え工事だ。ほぼ7―8割がたビルも出来上がりつつある。本当に変身中だ。ビルの外壁に窓が見えない。窓のないビルのようだ。よく調べたら西側には窓がなかったが、他の3面は前面ガラスで出来ていた。完成は来年の1月だという。さてよく食べに行っていた「ニュートーキョー本店ビル」も3月には建て替えのために壊される。地下のイタリア料理の「VINO VITA」にはそれこそ月に2回は行っていたから残念だ。数年後には出来上がるらしいが、この店が再度入るかどうかは分からないという。有楽町にも近く、地下鉄の駅にも繋がっている便利な建物だから、果たして今後はどういう利用が考えられるのだろうか?「ニュートーキョー」関連の食べ物屋さんはそれぞれ色々なところに移動するらしいが、VINO VITAのような野菜中心で食べ放題飲み放題は本当に助かっていたが、残念ですね。

「二月大歌舞伎」

「二月大歌舞伎」
歌舞伎座昼の部はほぼ満席だった。相変わらず「歌舞伎人気」は根強いようだ。この歌舞伎と言う芸術は、綿綿と続く歴史を持っており、多数の古典がある。今回の昼の部の題目3題は実は初めて観るものだった。大概以前に観たものが役者が変わって演じられていたりするのだが、今回は全てが初めてであり、仇討ち物で面白かった。江戸時代、仇討ちは主君や父親や家族が殺された場合、藩から認められて仇討ちを行う旅に出るのだが、その成功率はたったの2%だとも言われている。それほど仇討ちは難しいということだ。逆に討ち取られてしまったり、敵役が見つからなかったりと、大変だったらしい。また殺され方にもより、武士の場合、刀を抜いて立ち会って討たれた場合はよいのだが、刀を抜いていないと、殺されても武士の風上にも置けないとして仇討ちを認められないケースもあった様だ。何にしても武士は辛いといえよう。

「2015年の映画のお話し」
映画「ラブストーリーズ、コナーの涙」(ヒューマントラストシネマ有楽町にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年23作目)
2つの映画の一つ。副題は「HIM」。生後2ヶ月目の息子を失った二人。妻が突然夫の元を去った。

映画「縫い裁つ人」(ヒューマントラストシネマ有楽町にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年24作目)
神戸の仕立て屋「南洋服店」は祖母から受け継いだ2代目の女性が祖母の作った古い服の直しをしている。頑なにブランド化を拒む女性。それを口説こうとする大手百貨店の外商の青年。一生着ていられる服を作ることを信条にして生きる女性を描く。

映画「ラブストーリーズ、エリナーの愛情」(ヒューマントラストシネマ有楽町にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年25作目)
副題は「HER」。コナーとエリナーの夫婦は生後2ヶ月の息子を失ったために危機に陥っている。「HIM」とは違い同じ物語を妻の視点で描いている。どちらから先に観るべきなのか?分からなかったが、HERが先の方が話しは分かり易い。

映画「フィフティー・シェイズ・オブ・グレイ」(TC日劇にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★(今年26作目)
サディステックな行為でしかセックスを堪能出来ない富豪の男と、ヴァージンの女子大生のラブストーリー。全編セックスシーンで溢れていた。さて結末は?

映画「ミュータント・タートル 3D」(丸の内ピカデリーにて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★(今年27作目)
まあ、観ないほうがいいだろう。亀がニューヨークを救うというもの。

映画「チャーリー・モヅデカイ」(TCスカラ座にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年28作目)
コメディーでした。

映画「フォックス・キャッチャー」(角川シネマ有楽町にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年29作目)
昔、狐狩りをしていたという土地に大富豪「デュポン」の豪邸があり、そこがチーム・フォックスキャッチャーというレスリングのトレイニング場になっていた。ロス五輪で優勝した兄弟をデュポンは兄をアシスタントコーチ、弟を選手、そして自分をコーチとしてソウル五輪に挑むのだが、彼の思惑は何なのか?そしてその結末は?金メダルの誘惑とは?実話でした。

映画「深夜食堂」(TOEI銀座にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★★(今年30作目)
新宿の場末にある「めしや」と書かれた暖簾。深夜12時から朝まで営業する飲み屋。そこを訪れる人たちをオムニバス形式で描く。庶民の悩みや楽しみを淡淡と描く。まあ、昭和を味合うには最適か。

日経新聞2月20日夕刊の「シネマ万華鏡」の評価によれば、「アメリカン・スナイパー」が5つ星、「女神は二度微笑む」が4つ星、「きっと、星のせいじゃない」が4つ星、「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」が1つ星、「スペシャルID特殊身分」が2つ星、「クレヴァニ、愛のトンネル」が3つ星、「花とアリス殺人事件」が2つ星でした。

「私の去年2015年の映画の評価は?」あくまで私の私感ですからね!!
今年の★★★★★は、「ドラフト・デイ」
今年の★★★★は、「ゴーン・ガール」「トラッシュ」「スパイ・レジェンド」「アゲイン、28年目の甲子園」「おみおくりの作法」「ビッグ・アイズ」「KANO」「深夜食堂」

「2015 旅の記憶シリーズ」
2015年の国内旅行は、1月に福岡(博多)、大分(中津)、佐賀(武雄温泉)、岐阜(白川郷、)、富山(五箇山、氷見、高岡)、新潟(越後湯沢)を訪れました。

2015年の海外旅行は、2月のハワイでした。
「2015年 歌舞伎観劇シリーズ」
 「二月大歌舞伎」=「吉例寿曽我」(鶴ケ岡石段の場、大磯曲輪外の場)、「彦山権現誓助剣」(毛谷村)、「積恋雪関扉」の3つでした。前の二つは仇討ちものでした。
  

「2015 本の記憶シリーズ」
「雲雀野」(今井 絵美子 著)角川文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年39冊目)「照降町自身番書役日誌」シリーズ最終回

「斬鬼嗤う」(鳥羽 亮 著)光文社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年40冊目)「隠目付江戸日記」シリーズ第9段

「近松殺し」(井川 香四郎 著)文春文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年41冊目)「樽屋三四郎言上帳」シリーズ第14段

「憂き世往来」(芝村 涼也 著)双葉文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年42冊目)「御家人無頼蹴飛ばし左門」シリーズ第1段

「やぶへび」(大沢 在昌 著)講談社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年43冊目)